正福寺のホームページ『正福寺だより』バックナンバーです。2003年~2013年

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2013年の『正福寺だより』です

2013.12月号

私の体って何てうまくできているのだろう!――住職、大腸がんの手術終え、10日間で退院


住職はお蔭さまで、11月22日に退院してまいりました。15日の手術は、腹腔鏡補助下S状結腸切除術というものでしたが、全身麻酔をされ、3時間半か かって、S状結腸とリンパを取り除き、無事終了しました(自分では全く記憶にありませんが…)。術後の経過もおおむね順調で、快復も早く、入院から10日 目に最短日時で帰ってくることができました。ご心配いただいた皆さま、ご安心ください。またお心をいただき、有り難く思っております。

しかしながら、約25㎝×15㎝大のS状結腸を切除し、その間を接合したわけですから、便はまだまだ不安定で、日常のサイクルを取り戻すには、まだしばら く時間がかかりそうです。ということで、体力の回復も含めて、体をもう少し労わりたいと思います。報恩講の際に、お伝えいたしましたように、当初の予定通 り、12月15日まで、お参りは控えさせていただきたく、何とぞご理解、ご協力をお願い申し上げます。また、ご誠意を寄せていただいた皆さまにも、十分に お応えしていない面が多多あるとは存じますが、これも病人のこととして、お許し願いたく存じます。

今、入院中の私の心境なり、院内での出来事などを記した手記を執筆しておりまして、やがて皆様にもお読みいただけると思っておりますが、その一端をご紹介し、12月号の住職のメッセージに換えさせていただきます。

「(手術2日目)…昨日の高熱が今日は37.6℃に下がって、危機は脱出したと思った。気分がよくなればお腹が痛くても動けるようになる。しかし、尿管を 外しベッドから立ち上がろうとしても、平衡感覚が取れず、すぐ倒れてしまう。看護師さんに支えてもらい、ようやくトイレに着くと、今度は自分の力で尿が出 せるか不安になる。痛みを感じながら尿意の催すままに待っていると、微量の尿が出てきた。有り難かった。水が飲めること、体を動かせること、尿や便が出せ ること、どれ一つとっても自分で生きるために欠かせないものばかりである。それらの行為の一つ一つがすごく重みのあることであり、本当はもっと喜ぶべきも のであり、素晴らしさを噛みしめるべきものなのだろう。〈私の体って、何てうまくできているのだろう、お蔭さまで生かしてもらっています〉と感謝すべきも のなのだ」(住)

2013.11月号

待ったなしの「老病死」を歩んでいます――大腸がんで報恩講後、入院・手術します


少 しだけ、ご不自由とご心配をおかけするかもしれません。正福寺の住職を拝命して来年で丸30年になりますが、「ちょっと一休みしなさい」ということかもし れません。この11月13日に入院し、15日に手術することになりました。病名は「S状結腸がん」で、大腸の一部と周辺リンパ節の切除を行います。
 排便がすっきりといかない状態が長く続いていました。7月の定期検査で便に血が混じり、8月の再検査でも血が混じっていることがわかり、9月初めに大腸 の内視鏡検査をしてところポリープが見つかり、切除しました。摘出した組織を調べてもらった結果、がんと判明したのでした。
 がんだとわかったとき、主治医の先生が「よかったねぇー」と、喜んで言われたのが耳に残りました。「よかった」と言われたのは「早く見つかって…」とい う意味です。初期のがんでした。したがって、切除手術は転移の確率を低くするためのもので、深刻なものではないということです。ですから、皆さんもあまり ご心配されませんように…。
 それよりも、私がどうあれ、ご門徒の皆さん、また有縁の皆さまが、如来さまの大悲のお心を聞かれ、如来さまを頼りとする人生を歩まれることです。そうい う人が少しでも多くいてもらうことが、私には何よりも力強く、頼もしく思えることです。仲間がたくさんいるのは、うれしいじゃないですか!
 その意味でも、報恩講にはぜひともお参りくださいますよう、心からお願い申し上げます。皆さんのお顔が見たいのです。
 がんになってわかったこと―。一つは、私がどれだけ多くのいのちのおかげで生きているかということです。特に、大腸には、がんにさせるほどの気苦労をかけたということでしょう。申しわけないと思います。
 わかったことのもう一つは、私は今まさに、老病死の待ったなしの人生を歩んでいるということです。そして、老病死の先には、お浄土という希望いっぱいの 生が待っていることへの安心感も味わわさせてもらいました。そんなことで、しばらくの間、浄土に生まれることの有り難さを噛みしめようと思っています。ど うかお許し下さい。(住)

2013.10月号

死生観が問われている!――急増する「胃ろう造設」と延命処置


今 医療現場で、患者への栄養補給の手段として、お腹に穴を開けて、直接胃に栄養剤を送り込む「胃ろう」が急増しているという。それも健康回復の見込みのない 高齢患者や認知症患者に造設する例が多く、延命処置として機能している現実に、患者や家族、また医療や介護を行う側にもさまざまな戸惑いと問題が生じてい るらしいのだ。

医療問題ジャーナリストで、社会福祉士でもある熊田梨恵さんがこのたび『胃ろうとシュークリーム』(ロハス・メディカル刊)という本を上梓し、その中で明らかにされている。

特に目を惹いたのは、胃ろう問題の課題として死生観の必要性を強調されている点だ。本書では、取材の過程で考えたこととして「医療は、日進月歩で発達して います。以前なら救われないような命も、救うことができるようになりました。人工的に、呼吸も、排泄も、栄養もできるようになりました。だけど、それは果 たして本当に人間の望んだことなのか、幸せなことなんだろうかと思うんです」と問題提起し、「一番大事なのは、私たちがどう生きたいか、どう生き終わりた いか、ということだと思います」と語り、「自分の死まで医療に任せてしまっている」現状に、疑問を呈しておられます。

その象徴が「胃ろう」というわけなのですが、熊田さんは、胃ろうを着けた認知症で介護5の義母を施設で看取った女性の心情を紹介しておられます。「意識 がないのにあんなに苦しそうな顔をするということはお義母さん、本当に苦しかったんだと思います。それから解放されたんだと思うと、良かったと思ったんで すよ。やっと胃ろうからも解放でしょう。そしたら少し涙が出て。悲しい涙じゃなくて、お義母さんが本当に頑張ったことを讃えてあげたいような、そんな気持 ちでした」。「最後に(大好きな)シュークリーム、食べさせてあげたかったわあ」――。

「どう生き、どう死ぬ」か?――。目を逸らさず見据えることの大切さを本書は教唆してくれるが、あわよくば、その死の先の価値観、すなわち後生の一大事を見ていく機縁になれば、もっと有り難いと思った。(住)

2013.9月号

どこまで行くのか?いのちの操作――将来のために、卵子を凍結保存する独身女性!


今 は生みたくないが、将来のために、自分の卵子を冷凍保存したいと願う独身女性が増えているのだそうです。日本生殖医学会が健康な女性にも卵子を凍結保存す ることを認める指針案をまとめたとメディアが報じて、私も知りました。「自分の子供を持ちたい」と思うのは、大方の女性のごく自然な願望でしょう。

しかし、今回の「未受精卵凍結」だけでなく、「受精卵凍結」や「体外受精」「人工授精」、「卵子提供」「代理母」などの言葉が連日紙面を飾る昨今です。 「子供を産みたい」、それも「健康な赤ちゃんがほしい!」という願いの裏返しは、「障害を持った子は産みたくない」でしょう。最近の医療では、出生前の胎 児遺伝子検査によって、かなり高い精度で染色体異常がわかるとされ、高額な検査費用にもかかわらず、広く普及しつつあると言われています。

都合のよい時に産み、異常があれば排除していく…、そうしていのちがコントロールされていきます。コントロールする主体は、子どもではなく、この「私」 です。私の自己中心的な欲と執着、すなわち、我欲と我執によって「いのちを操っている」という認識はあるのでしょうか?子どもは親の所有物ではありませ ん。いのちは個々に存在しているのではなく、皆つながっているのです。すべてのいのちは根底において一つにつながっていると思えた時、自分の都合で左右す るものではないと気づくことでしょう。

「生き方の自由な選択」と言っても、それは「私」だけのことです。それによって「他」のいのちの存廃が決まるのでは、いのちを尊んでいることにはならないでしょう。今こそ、自我の目でなく、大いなる自然の摂理の中でいのちを見ていく目が必要なのではないでしょうか。

さらに、自分の願望について一言。確かに人生設計は必要かもしれませんが、その通りに人生が送れることはまずありません。仏教で説く生老病死の四苦は、 「人生は思うようにならない」ことを象徴しています。にもかかわらず、「思うようにできる」と錯覚しているのが現代人ではないでしょうか。自己を見つめる 目がやはり必要なようです。(住)

2013.8月号

聖徳太子さんが富士の山を飛翔したという話―― 山は「征服」するもの?それとも「仰ぐ」もの?


富士山が世界文化遺産に登録された今年は、例年以上に富士山頂を訪れる人が多いようです。山頂に登ると何とも言えない達成感が味わえます。自分の可能性を確 かめるため、また何かのけじめや、励みにしようと登る人もいるでしょう。単純に「山があるから登るんだ」という人もいるかもしれません。そうして登頂に成 功した達成感は、高い山であればあるほど、困難な山であるほど、その度合いは増すというものです。

自己の達成感は「山を征服した」という表現でも表わされます。日本一高い富士山に通勤ラッシュ並みの人が押し寄せるのも、その感激を体感したいため、というのがあると思います。  いずれにしても、主体は「私」です。「私が登り、私が達成する」のです。それが現代人の感覚です。

しかし、昔は、主な山は「仰ぐ」ものだったのです。三大霊山といわれる富士山、立山、白山がそうですし、先に世界遺産になった熊野三山や大峰山などの紀 伊山地の山々、各地方の山々でも山頂付近は、人間が足を踏み入れてはならない聖なる空間でした。数限りない動植物がそれぞれの役割を分担しながら、調和さ せて息づく大自然そのものでもありました。言葉を変えれば、神々の住むところだったわけです。人びとは畏敬の念を持って仰いでいたというべきでしょう。

1000年以上前に生まれた伝説ですが、神と崇めていたその富士山を「甲斐の黒駒(山梨県産の名馬)」に乗って駆け上った人物がいました。聖徳太子さん です。太子は仏教を尊び、仏教で国を治めようとされた方です。神である富士山の頂上を飛翔したというのは、聖徳の「仏」が富士の「神」を治めたということ でしょう。それは「東国の神々を太子が仏教によって治められた」象徴でもあったのです。

山は、その後、山岳信仰者が入って修行する場となりましたが、明治までは、やはり聖なる空間でした。今は山積みになったゴミに象徴されるように、俗が限りなく浸入しています。山や自然の持つ神聖さに気づいてほしいと願わずにはおれません。(住)

2013.7月号

聖なる卍の意味を封印した西洋キリスト教社会―― 中垣師の新著『卍とハーケンクロイツ』を読んで


お寺に携わり、仏教を信奉している私でさえ、「?」は、ユダヤ人を大量虐殺したナチスドイツの忌々しきシンボルだと思っていた。そして、それがお寺の印である卍によく似てはいるが、先端の曲がり具合が左右逆なので、まったく別のものだと思っていた。

ところが、それはまったくの間違いであることが、最近出版された『卍とハーケンクロイツ卍に隠された十字架と聖徳の光』(現代書館刊)によって明らかにされた。

他でもない。この新著は、住職の友人で、ニューヨーク在住の僧侶・中垣顕実師が渾身の力で書き上げた研究論文を、日本語で一般向けにわかりやすく書き改めた注目の本なのだ。 本書は、近代史がいかに西洋中心に動いているか、また現代社会の価値観が、いかに欧米中心であるかを思い知らせてくれる。

というのも、卍も?も、洋の東西を問わず、大半の宗教に共通する聖なるシンボルだったのだ。原初的には、光を象徴する太陽であり、多くの恵みをもたらすこ とから幸運や吉祥を表し、人智を超えた大いなる功徳、すなわち聖徳を表していたという。仏教では、聖なる徳を具えた仏さまご自身を表し、仏さまの光明を表 すものでもあった。何千年とわたって受け継がれてきたそうした聖なるシンボル(卍や?)を、 20世紀になって、世俗の世界に引きずり降ろして、特定の民 族(具体的にはアーリア民族としてのドイツ人)の優位性を象徴するものとして利用し、白人キリスト教徒の世界を作り上げていこうとしたのがヒトラーであっ た。さらに戦後、欧米のキリスト教諸国は、敵国ドイツの蛮行を糾弾するとともに本来、聖なる印(十字架の一種)であった?を邪悪の象徴として封印し、仏教 の卍にまで嫌悪感を抱いて、その本来の意味を忘れさせてしまったわけだ。

力持つ者や集団の価値観が時にとんでもない蛮行を犯してしまう。それは、現代にも通じることを肝に銘じておきたい。(住)

2013.6月号

付属池田小学校殺傷事件から12年・・・


池田の付属小学校で多数の児童が殺傷される事件が起こって、この6月8日で丸12年になる。事件以来、学校の門は固く閉ざされ、見知らぬ人には近寄らない、と指導しなければならないようになった。

教育現場で「人間は信じられない」と教えるのは、何とも矛盾に満ち、どれほどいびつな心を作り上げることか、と心配したが、その傾向はますます強くなってきた。無差別殺人が後を絶たず、一番信頼すべき親がわが子を虐待するケースも頻発している。

日常風景を見ても、人間関係がいかに希薄で、壊れやすいかがわかる。私は、阪急電車に乗って梅田や京都に出かけることが多いが、車内では大半の人が携帯 (スマホ)の画面に目をやるなどして自分の世界に入り込み、周りに気を配ることはまずない。6人掛けのシートを4人、5人で占拠し、目の前に人が立って も、ほとんどの場合、無関心で、動こうとはしないのである。傍で見ていると、座っている人たちがお互いに声をかけ、少しずつ詰め合って、座れる空間を提供 すればよいと思うが、それをしない。立っている人も立っている人で、座りたいのに、声をかける勇気?がないというか、声をかけて嫌な顔をされたのではたま らないという思いもあるのだろう。ギューギュー詰めの中から、座る空間を無理やり作り出すインドの車内とは似ても似つかぬ光景なのだ。

最近、ある新聞の論壇を読んで、メリトクラシーとアミタクラシーという言葉を知った。メリトクラシーとは利益追求の世界、アミタクラシーは、その反対語 で仏教文明を意味するという。メリトクラシーでは、功利主義、能力主義の人間形成がなされ、「成功か失敗か」のものさしで生き、人間の基本的信頼を破壊す るといわれる。

日本社会がまさにメリトクラシー一色になりつつあることに危惧を抱くとともに、基本的信頼を大前提としたアミタクラシーの復活を心から願ってやまない。(住)

2013.5月号

五輪招致で、思わず出た都知事の本音


4月下旬、オリンピック招致活動でニューヨークを訪れていた猪瀬東 京都知事が、地元メティアのニューヨーク・タイムズ紙で、同じく有力候補地のイスタンブールを意識して「イスラム諸国が共有するのはアラー(神)だけで、 彼らはお互いに喧嘩ばかりしている」(翻訳)と、イスタンブールは不適格と言わんばかりの発言をして、多方面から批判を浴びた。

明るみになった翌日には謝罪したが、発言そのものは、むしろ都知事の正直な気持ちが表れていて、改めてオリンピックを開催することの意味を考えさせられ た。 都知事に限らず、東京でオリンピックを開催したいと願う人たちの言動を見ていると、東京がいかに世界の最先端を行く近代都市であるか、その利便性や安全 性、それに環境・経済性にも優れているかを示し、開催によって、沈滞気味の日本に、活気と誇りを取り戻そうというネライがあるように思う。ところが、その とらえ方は一面的であり、東京の優位性を主張すればするほど、優劣の比較となり、結果的に上から目線で他都市を見てしまう傾向になってしまっている。

挙句に、「イスラム諸国うんぬん…」の話は、単に一都市の話ではなく、またオリンピックという一行事の話ではない。15億人以上のイスラム教信者が世界各 国でさまざまな暮らしをしているにもかかわらず、それを一つの社会としてに括り、イスタンブールをその同質性の中でとらえるというお粗末さが露呈した。 「イスラム世界ではオリンピックはふさわしくない」と言っているのと同じことである。

「高度な技術で、常に発展し続け、競争に勝ち抜かなければならない」-その発想から根本的に転換しなければ、やがては、世界から敬遠される破目になるだろう。力の誇示ではなく、今、ともに生きていることの連帯感の共有が、オリンピックでも大切なのではないか(住)。

2013.4月号

夕日の向こうに浄土を観てきた日本人


お彼岸入りの3月17日、宗教学者の山折哲雄先生が正福寺においで下さり、 ナムのひろば文化会館で「夕日に想う」と題し、ご講演くださいました。

会館の舞台西壁には夕日を描いたステンドグラスが制作されています。 そのステンドグラスを背景に、お話いただいたわけです。

先生は、日本人の夕日への思いは童謡「夕焼け小焼け」に見事に表わされている と語られました。「日が暮れて帰る」ところは、単に我が家ではなく、また子どもに 限ったことではないと言われます。それは、この人生を終えて、帰っていくところ としての西方浄土、つまり阿弥陀仏の極楽世界がイメージされていると言われるのです。 阿弥陀仏のお浄土は、選ばれた者だけが帰るのではありません。「お手てつないでみな帰ろ  からすと一緒に帰りましょう」と歌われます。対立する者であっても、嫌われ者でも、 老少男女いずれであっても、平等に帰りゆくところがお浄土であり、そこへ私もあなたもともに帰ろうと、この詞は語りかけているのでした。

また、先生は、親鸞聖人も、陶淵明の「帰去来」(かえりなんいざ)を引用され、皆に お浄土に帰ることを勧められたと言われます。  全国の町や村で、夕方の時報代わりに流される有線の音楽で一番多いのが、この「夕焼け小焼け」であり、 山田洋次監督の人気シリーズ映画「男はつらいよ」には、必ず夕日の光景があったことにも触れられ、日本人の心の奥に夕日への思いが深く刻まれていることを 力説されました。  今、「生」一辺倒の生活を送る現代人に、夕日が語りかけてきたメッセージをしっかりと聞きとってほしいと、講演を 聞いて思った次第です。(住)

2013.3月号

大気汚染が気になる季節


春が近づいてきました。日ごとに太陽の明るさを感じるようになりましたが、その一方で、花粉が飛び散り、鼻水や目の痒みに悩まされる人も多いのではないでしょうか。

黄砂も大陸から流れてきます。年々、その量が増えているように思うのですが、いかがでしょうか。黄砂の中に混じる汚染物質が気になるところです。

ところで、最近はPM2.5という用語がよく使われます。中国で発生した煤煙や排気ガスなどの汚染物質が、大気と混じって日本に運ばれ、九州など西日本の 空に拡がっているというのです。その大気に含まれる粒子状物質の中で、特に健康に大きな影響を及ぼすとされているのがPM2.5というわけです。

「微小粒子状物質」といわれるPM2.5は肺の奥まで達して、ぜんそくやアレルギー性鼻炎を悪化させたりする可能性があるといわれます。また、一部は血管にまで入リ込んで、血栓や不整脈を起こす恐れもあるそうです。

年齢とともに高血圧や動脈硬化、脳血栓が気になる私ですが、大気がこういう病気を誘発する汚染物質を含んでいるとなると、やはり心配になります。

放射能汚染をはじめ、PM2・5などの微粒子による大気汚染、それに、これまで経済発展のもとに大量生産し消費してきたおびただしい生産物とその副産物に よって、人類は今、自らの身にしっぺ返しをくらっているのではないでしょうか? それはiPS細胞などの生命操作にも言えることです。人間の手に負えない 領域まで踏み込むことの危険性を、汚染された大気から感じているところです。(住)

2013.2月号

「梅一輪 一輪ほどの・・・」というけれど


この冬は寒く、日本海側や北日本では大雪に見舞われているところが少なくないようです。大阪では、雪はちらほら程度ですが、氷の張る日は例年になく多いように感じます。

そんな一月下旬のある日、境内の梅の小木に花が咲いているのを見つけ、ささやかながら感動しました。

この梅の木は、二、三年前に新境内地取得の関係で、鐘楼堂の前から南側に移したのですが、土がなじまないのか、ずっと元気がありませんでした。環境の変化 に、小さな木は順応できなかったのでしょう。大きくなる様子もなく、枯れてしまうかもしれない。早く、元の場所に移してあげなければ、と思っていたところ でした。

そんな梅の木が、一番寒い時に、花を咲かせたのでした。「梅一輪 一輪ほどの 暖かさ」(服部嵐雪)という俳句があります。徐々に春が近づいている早春の イメージを抱かせる句なのでしょうが、そんな兆しはまだない頃、これから寒くなると実感できるような寒い朝に、咲いているのを見つけたものですから、何と も、けなげで、いじらしく、可憐に思えたのでした。

こうも思いました。日頃はまったく顧みられなくても、小さないのちは黙々と、生きる営みを続けているのだということを―。無視されようが、逆に注目され ようが、そんなことに左右されず、つねにかけがえのない自分を見つめ、自分をひたすら生かしていくことが大切なんだということを―。寒さの真っただ中に花 を咲かせた境内の梅は、私に、生きるたくましさやすばらしさを伝えてくれました。

ふと気づいて、すぐ近くのひょうたん池に目を移すと、金魚たちも、氷の下でじっと動かず、寒さに耐えているのでした。(住)

2013.1月号

私は今、聞法の年頃!?


私は今年、満62歳になります。還暦を越え、老年の域に入っていますかし、60歳の他人を見て「年寄りやなぁ」と思うのに、自分がその人より年寄りだとはさらさら思いません。自分の姿が見えていないからでしょう。

結婚して30年、住職になってからでも29年目になります。元来、怠け者の私がお寺に帰って、課題と希望を胸にあれこれと突き進んできたのですが、かと いって、心が益々充実してきたかというと、お恥ずかしい限りです。手ごたえがあったと思うものはたくさんありますが、それらはすべて変わりはて、消えてい きます。それどころか、世の中や人びとの醜さ、至りなさ、いい加減さが目に映ります。そして何より、私自身、人とのつながりが多くなればなるほど、付き合 うことが億劫になり、疲れてしまい、裏切り、関係を放棄してしまう結果になります。自分が醜く、至らないことを知らされます。でも、修復する元気と勇気も 萎えてきている、そんな老いた自分がいます。

親鸞聖人が「よろづのこと、みなもって空ごと戯ごと、まことあることなきに、念仏のみぞまことにておわします」(「歎異抄」)とおっしゃられたのが段々と わかるようになってきました。  蓮如上人の言葉も身に沁みます。―「人間はただ電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。たとひまた栄華栄耀にふけりて、おもふさまのことなりといふと も、それはただ五十乃至百年のうちのことなり。もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。まことに死せんと きは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず…」と。このいのちが尽きて生まれる浄土の法を聞きたいと思う今、 私はちょうど年頃なのです。(住)

2012年の『正福寺だより』です

2012.11月号

万感の思いで落慶の日を!


隣接地の話があって丸4年、取得の意思を示して丸3年、実際に土地を取得して1年7ヵ月の月日を費やし、今ここに、仏さまの心を味わっていただくことを目 的とした市民開放のひろばが誕生しようとしています。感無量です。いろいろな困難がありました。特に人の心の思ってもみなかった反応に心痛み、力を落とし たこともありましたが、それらもろもろのことは、みんなかけがえのない人生の思い出として心の財産になったと心底、思っています。

「ナムのひろば」に込めた仏さまの心、この正福寺に誕生したひろばで、縁あるすべての人たちが人生の慶びを感じていただきたい。ただそれだけです。この 偉業が達成できたことは、仏祖のおかげはいうに及ばず、同感いただいた大勢の皆さんのご懇念やご協力のおかげです。心より感謝申し上げます。10日11 日、お寺でお会い致しましょう!(住)

2012.10月号

携帯電話に支配される人びと!


先月、iPhone5という多機能携帯電話の新製品が発売され、長蛇の列ができた。また発売日、当の商品があちこちで大量に盗まれる事件が発生した。さらに、モバゲーとかソーシャルゲームとか呼ばれる携帯ゲームにはま り、自分をコントロールできなくなる若者も急増しているらしい。  携帯電話が国民一人あたり一台以上持つ時代となり、人びとに飛躍的な利便性を与える一方で、依存度も高まり、人間が携帯電話に支配される事態が明らかに なりつつある。  先日、電車に乗った時のこと。私の向い側の席に座っていた乗客全員が、揃いも揃って手に持った携帯電話を操作していたのである。

その光景はどう見ても異様である。隣りに誰が座ろうが見向きもしない。お年寄りが前に立とうがお構いなし。自分の世界しか見えていないのだ。

ちょうど十年前、携帯が六千万台を超えた時、「正福寺だより」でこう述べた。「携帯電話の普及は、ますます人々を強固な自我の殻に閉じ込めさせる傾向を生む。人間の心も地面から離れて、空中をさまようような気がしてならない」と。その感は益々増すばかりだ。  私は子どもの頃、電車に乗るのが楽しみだった。靴を脱いで座席に上り、次々と変わる窓外の景色に見入ってものだ。

しかし、今は外の景色を興味深く見る人は誰もいない。他者や、自分を取り巻く環境を知ることによって自分を知る。そういうことが自然になされていたと思 うのだが、今やお互いの関係性が見えず、一人一人が切り離されているようだ。携帯電話がそれに拍車をかけていることだけは確かだろう。(住)

2012.9月号

竹島、尖閣諸島の問題


竹島、尖閣諸島の領土問題がこのところ、頻繁に表に出始めている。 竹島(韓国では独島というらしい)では、以前から韓国が実効支配しており、建物を立てて、国旗を掲げたりしているようだが、面積は狭い上に、岩ばかりで切 り立っており、とても人が住めるような環境ではない。それでも何人かが常駐し、自分たちのものだと懸命にアピールしている姿に、異様な雰囲気を感じてしま う。そこに居る必然性を彼らからは感じないのだ。ただ陣地獲りだけに居るようなものだ。

もちろん、領土となれば、その周辺の海域も領有するというので、漁業や天然資源、あるいは防衛に有利ということなのだろう。が、世界の陸地で、人間の手 が入っている土地は、手の入っていない土地よりもはるかに少ないことを思えば、やはり異常である。ずばり、日本に対して、この島は韓国のものだと主張する ために行っている一連の行為なのだ。

同じことが、尖閣諸島に対する最近の日本の動きにも言える。特に東京都の姿勢は、竹島で韓国が取る行動を踏襲しようとしているように思う。今は誰も住ん でいないし、漁業の為の施設などもないようだ。つまり、島自体は、人が利用しているようには思えない。今、そこへ人が行き、たとえ建物を立てて住もうが、 それは、中国、台湾に対して、ここは日本の領土だと主張するためだけのように思う。

人が住んでいない島、住まなくなった島はたくさんある。逆に、その島が生活する上で大切であると思ったなら、国籍の如何に関わらず、誰でも住めるようになればよいのだが…。

そういう感覚がないまま、陣地獲りに躍起になって、自分たちの権利ばかり主張する人間のエゴが浮彫になっている。エゴとエゴがぶつかれば、その先に戦争があるというのが、これまでの歴史だ。しっかりと私たちのなすべき行動を見極めなければならない。(住)

2012.8月号

エンディングノート


昨年上映された「エンディングノート」なる映画が最近DVD化さ れ、観せてもらった。話は、戦後の高度経済成長期を生き抜いたサラリーマンが、定年後、間もなくガンに罹り、死を覚悟。残された人生をいかに生き、そして 終えるかを考え、実践するすがたをドキュメントで綴った映画である。映像は主人公の娘が撮り続け、実際に主人公は家族が見守る中、死んでいく。それだけに、観ている私も家族の一員になったように感覚で、人の死が間近に迫ってくる映画だ。

主人公は、まず式場選びから始める。結果、都内のキリスト教会を選び、かたちの上では洗礼を受けて信者になることにする。葬儀は近親者で行うこととし、 その他、具体的にどうしてほしいかを家族に告げる。そして、家族と過ごす時間、特に孫たちと過ごす時間を大切にする。死に至るまでの日々、結局、家族との 会話が何より本人の不安を和らげ、喜びを起こさせる原動力になっているというのが、伝わってきた。

亡くなる三日前に、病院のベッドで妻との間で交わされた会話は、文字通り、人生最後のメッセージになった。死を悟った夫が最後の言葉を振り絞って、ベッド 傍の妻に「愛してるよ」と言う。それを受けて妻は「私も一緒に行きたい。もっともっと大切にしてあげればよかった。でも、もう遅い」と、涙する。それが、 この映画で一番、印象に残ったシーンだ。

「人と人が信頼し合い、支え合う」-そうした縁と絆が、人の人生を生かし、心も満たしていくものだ。映画はそう語っているように思えた。

しかし、映画では語られない、むしろ避けているもう一つの大事なことがある。それは、いかに終えるではなく、死後をどう生きるかだ。始まりのない人生の終焉は、それこそ、お先真っ暗である。「浄土に往き生まれる」ことの大切さを考えたい。(住)

2012.7月号

相次ぐ車の暴走事故に思う


車の暴走事故が相次いでいる。祇園の繁華街を軽ワゴン車が暴走し8人が死亡した事故。亀岡では無免許運転の少年の車が児童の列に突っ込んだ。さらに、神戸で盗難車が暴走したかと思うと、次の日、大阪西成区でもワゴン車が暴走し、多くの人や建物を傷つけた。

祇園の事故でも、西成の事故でもそうだが、暴走している運転者の心理状態は、どう見ても尋常ではない。そこに人が居ようが、信号があろうが、お構いなしで ある。周りの状況は目に入らず、また頭にも入っていないのだ。ただ猛スピードで駆け抜けているだけである。心に溜まった憤懣、あるいはやり切れない思いの 塊りが、心と体を支配しているということなのだろう。

そんな人物に「信号を守りましょう!」「制限速度は守りましょう!」と言っても始まらない。聞く耳を持たない状態だからだ。そこで、どうするか?そんな 危険人物は、社会から締め出し、自分たちを守るために法律を作って「二度と起きないように」安全対策を講じなければならない、とするのが今の社会である。 つまり、悪人を排除し、悪人から善人である自分たちの安全・安心を守ることを追求してきた社会なのだ。

しかし、それが大きな矛盾を露呈してきている。本来ならばよりよい社会になっているはずなのに、逆にますます社会不安が拡がっているからである。

ここらあたりで、これまでの発想を転換する必要があるのではないか? 悪を排除するのではなく、包み込む社会の実現が大切だ。今の安全追求のかたちは他者 への不信の裏返しと言える。ともに受入れ生きる社会への方向転換をめざそう。 仏に抱かれた者同士という世界があることを知ってもらいたい。(住)

2012.6月号

南三陸から復興わかめが届く!


宮城県南三陸町馬場中山から、復興の名のりを上げるわかめが送られ てきた。馬場中山は海岸に面した小さな集落で、漁業、特に上質のわかめは村の特産品だった。それが東日本大震災の津波で漁船は全滅。しかし絶望の中から住 民が立ち上がり、一隻の養殖船を購入、昨秋、わかめの養殖に着手し、この春、わかめは見事に育ち、最初の出荷を終えたのだという。

正福寺では、バザーの売上金の一部をこの復興事業に寄付させてもらったのだが、今回そうした縁で「福福わかめ」と銘打たれた塩わかめ三袋が送られてきたわけだ。

同封の手紙に「このような地域産業の大きな節目の一歩を迎えることが出来たのも全国のみなさんの応援があっての事と心より感謝申し上げます。心ばかりで はございますが感謝の気持ちを込めまして〈復興わかめ〉を送らせていただきました。まだまだ震災からの復興は道なかばではありますがこれを足掛かりに地域 がさらに結束し前進するように努めてまいります」と、支援に対する感謝と、復興に向けての力強い決意が綴られていた。

大震災では、約百万人がボランティアで訪れ、日本赤十字社などへの義援金の総額は約三千五百億円にのぼる。大災害というのは、悲しみも大きいが、人は一 人では生きていけないし、互いに助け合うことで喜びと絆が生まれることを教えてくれるようだ。人間が強制や義務感ではなく、自発的に見返りを求めることな く動く社会がここにある。

お金中心に動く社会マネタリー・エコノミーから、自発性中心の社会ボランタリー・エコノミーへ、社会のあり方が変わることを期待したい。(住)

2012.5月号

もやもや感と危うさ感が募る中で新芽が…


人びとのもやもや感と危うさ感が、ますます募ってくるようだ。政治資金規正法違反に問われた小沢一郎議員に無罪判決が出たことがその一つ。  

秘書が勝手に虚偽記載したというのだが、そもそも4億円のお金を小沢氏個人がさっと出せること自体、おかしな話であり、庶民感覚とかけ離れている。小沢 氏がお金で人を動かしているのが容易に想像できる。我々のわからないところで、自分たちの都合のよいように利権を得ているのが、勘でわかる。ただ証拠が見 つけられないだけ、というのが大方の国民の見方だろう。

もう一つは、原発再稼働をめざす電力会社や政府、経産省の動きだ。慎重さを求めブレーキをかけようとする地方自治体や、原発撤廃を求めて活動する市民団体の抵抗も何のその、ひたすら自分たちの推しすすめてきた原発政策をなおも進めようとしている。

原発がいかに危険かということは今回の大震災で思い知らされたはずだ。国民が知らされているよりもはるかに危機的な状況であったこと、そして現在も続い ていることは、冷静に分析できる専門家ならわかるはずだ。第一、当面は原発を破壊するような地震や津波が来ないかもしれない。しかし、千年、万年単位で見 れば地形は激動する。陸地が海に沈むことだってあるのだ。原発はその時、人類を危機にさらすことだろう。バスや車の事故も頻発し多くの犠牲者が出してい る。どうもこの国の有り様が根底から揺らいでいるようだ。

そんな暗い思いの中、ふと境内に目をやると、木々や草花が緑の新芽を出し、可憐な花を咲かせていた。小さないのちの息遣いが聞こえるようで、心が洗われた。(住)

2012.4月号

大阪府教育基本2条例が成立して


教育行政の停滞と歪みを是正しようと提案された大阪府の「教育行政 基本条例」と「府立学校条例」が府議会で可決され、4月1日から施行された。 確かに、長年続いた戦後の民主?教育は、理想は高いものの、激動する社会と教育現場とのギャップは大きく広がり、さまざまな問題点が露呈していた。  しかし、今回の教育基本二条例を見ると、刺激剤としては有効だが、もっとも大切な教育の基本精神が崩れていくように危惧されてならない。たとえば、条例 制定の目的を「地域住民及び保護者のニーズをくみ取り、もって、子どもたちに、将来にわたって必要となる力を育む大阪の教育の振興に資する」とし、その実 現のために知事が関与することが書かれている。

知事はつねに社会の動向を見極め、人びとの現実生活を行政面で利していくのが職務だ。その発想からすれば、教育は「社会に役立つ人材」や「有能な人材」 を育成することとなってくるのだろう。そのために競争原理を持ち込み、互いに競い合わせ能力を開発させる。当然、負けた子どもたちは切り捨てられる。学区 制の撤廃は、学校間の格差と統廃合が進み、教師の評価に生徒保護者が加わる点は、人気度や感情に左右され、それこそ有能な教育者が切り捨てられる恐れもある。

教育は時代時代の潮流に乗る人材を育てるのが目的ではないはずだ。損得や役立つかどうかといった表面的なことではなく、もっと普遍的な「生きることの意味」「自他のいのちの尊厳」を自覚して、人格を育てていくことこそが基本だと思う。

何だか現代人の功利主義が益々増長されるような気がしてくる。これを可決させた大阪府民の責任は重く大きい(住)。

2012.3月号

他者のために自分が力になること


先月のバザーでは、東日本大震災の被災地から物産品を取り寄せ頒 布したところ、大勢の方が来て下さり、ほぼ完売となりました。 価格は通常のバザー品とは違って定価通りだったにもかかわらず、たくさん買っていただいたのは、被災された方がたの心を思って、少しでもお役に立てばと いう気持ちがあったからではないでしょうか。そして、それはそのまま自分の心が満たされていくことでもあります。そう感じた方も多かったことでしょう。

被災された方がたも、実は、他者とつながることによって、同じように心が満たされていくのです。津波で甚大な被害を蒙った宮城県南三陸町歌津中山地区の 最知隆さんは、ボランティアの人の「何が一番助かりましたか?」との問いに、「あんたたちがいてくれて一番助かった」(「御堂さん」3月号)と答えられま した。 震災後、「絆」という言葉がよく使われますが、お互いにつながりを持つことで自分を取り戻し、心が満たされ、それがまた他者を支えて行く力になっていく ことがわかります。 しかし、人間はその一方で、自分の生活や立場を最優先させるために、時としてそうした善意が覆されます。その例が、放射能に汚染されたであろう品物は、 受入れを拒否することです。大文字の薪がそうでしたし、汚染物の一時保管も受け入れるところはありません。山のような大量のガレキも引き取る他府県はごく 限られています。

他者と自分が一つにつながることの有り難さを感じる心を持ちながら、結局は、自分の都合、エゴが勝ってしまうところに、人間のお粗末さ、 慈悲を全うできない私が見えてくるようです。親鸞聖人の「修善も雑毒なるゆへに 虚仮の行とぞなづけたる」というご和讃の1節が心に沁みます。(住)

2012.2月号

地震が頻発する日本列島


東日本大震災以来、日本列島は地震が頻発しています。東北地方は言 うに及ばす、首都圏でもマグニチュード3~6クラスの地震が去年3月の大震災を境に5倍に増え、ここ4年以内にマグニチュード7クラスの地震が七十%の確 率で発生するという東大地震研究所の見解も発表されました。仮にM7.3の地震が首都圏で起きると、死者は一万一千人、負傷者二十一万人、倒壊家屋は八十 五万軒、経済被害は何と一一二兆円にのぼると予測されています。

これを知って、私は素朴な疑問を抱いてしまうのです。というのは、去年の大震災の折や、原発事故に伴なう計画停電の折、東京は大混乱をお越し、帰宅困難 者が何百万人規模になりました。ちょっとした積雪でさえ、交通機関はマヒし、帰宅困難者が続出する始末です。そんな大都市の脆弱ぶりを知らされたにもかか わらず、この切迫した事態でもなお、人口集中させるような経済活動を続け、超高層ビルを乱立させ、高速道路や鉄道を網の目のように張り巡らさせるような社 会の仕組みをなぜ、変えようとしないのかと思うのです。

目が、国際競争に勝たねばという一点に注がれているようですが、肝心の心の豊かさ、大自然とのつながりの大切さに気づこうとせず、人間中心の「井の中の 蛙」状態に陥っていることの愚かさを、一日も早く気づいてもらいたいのです。超高層から平屋へ、コンクリートから土の生活へ、自分で自分の生活を手作りで 築いていけるような社会に方向転換することが、基本としてしっかりと持つべきでしょう。頻発する地震はそう警告しているのではありませんか?(住)

2012.1月号

半球状の仏塔は無量の世界を表す!?


正福寺の新境内地に、インドの仏教遺跡を思わせる半球状の仏塔が間 もなく完成します。仏塔は、お釈迦さまのご遺骨(仏舎利)を納めた土饅頭型の礼拝施設です。インドで生まれた仏教が世界に拡がる過程で、形はさまざまに変 化し、日本では五重塔・三重塔になりました。正福寺の仏塔はインドの原初的な半球型で、内部には仏舎利の代わりに、ミニ仏像と菩提樹の葉を納める予定です (3月5日に完成式)。

ところで、この半球状の形について最近、思ったことがあります。キッカケは、師走のある日、宗教学者の山折哲雄さんら数人の学者先生と会食させてもらった時の歓談でした。

山折さんが「放射線量を測る時に使われる半減期という発想は、独特ですね。これだといつまで経ってもゼロにならないのでしょうね」とおっしゃったとこ ろ、理学博士で大阪市立科学館館長の加藤賢一さんが、間髪を入れず「いや、いずれはゼロになります」と、きっぱりとおっしゃったのです。

私はそれを聞いて、意外に思ったと同時に科学的思考の特徴を思いました。つまり、素粒子でも宇宙でも世界のあらゆる存在、現象が限りあるものであり、人 間が探求し、把握していく対象であるとする点です。これに対して、仏教、特に浄土真宗の場合は、世界の有りようは無限、無量であり、限りある人間が把握 (支配)することはできない不可思議の領域であるとみなしています。 円や球は、どこが起点でどこが終点かわかりません。延々と描き続けることのできる曲線は無限を思わせます。仏塔の半球状の形態は単に仏さまのお墓と いうのではなく、仏教の無量の世界観を表していると思ったのでした。(住)

2011年の『正福寺だより』です

2011.12月号

ブータン国王夫妻の来日


先月、ブータンのワンチュク国王夫妻が来日し、日本各地に爽やかな風を巻き起こされました。イケメン美女のゴールデンカップルもさることながら、気品と柔和な物腰に好感を持った人も多かったようです。

事あるごとに合掌される習慣は、仏教に基づいたものです。前国王のとき、ブータンは国を開きました。そのとき、物欲を追求する近代化の波に呑まれないよ うに「足るを知る」仏教的価値観に基づく国民総幸福感(GNH)を指標にして、国づくりを始めました。量より質を重んじる生活です。それにより、国民のが 「幸福」と感じているのです。

仏教的といえば、1日付読売新聞夕刊に、電線を引く計画があった村がオグロヅルの越冬地だったため、ツルの飛来の障害になるからと、電線設置を取り止めたことが紹介されています。

また、毎日新聞のコラムには、「お茶の中にハエが入った。大丈夫?と聞かれる。その人がブータン人ならば、お茶が大丈夫かというのではない。ハエが大丈 夫かとたずねているのだ。むろんすぐにハエを救い出さねばならない(大橋照枝著「幸福立国ブータン」白水社)。」という文が載っていました。

人間中心、現世中心、成長と繁栄、一点張りでまい進してきた近現代の日本人。ここらで、いい加減、気づいてほしいものです。あらゆるいのちがつながって いることを。生あらば死があり、死を超える価値観を見い出すことの大切さを。成長があれば衰退がある、この真実に目を背けずに生きることをブータン国王夫 妻の笑顔には、そんなメッセージが込められていたのではありませんか?(住)

2011.11月号

被災地の人びとからいのちのつながり知らされる


10月11、12日、震災後初めて宮城県内の被災地を訪れました。「苗プロジェクト」という支援活動を展開している蛯名隆三さんにお会いし、活動現場である南三陸町馬場中山地区に行きたいと思ったからです。

「苗プロジェクト」は、被災された方がたが、自分たちの手で野菜などの種苗を育てて、自活していこうという活動です。趣旨に賛同した私は、蛯名さんのこのプロジェクトを応援し、わずかな資金を提供していたのです。

蛯名さんの案内で馬場中山地区を訪れると、現場リーダーの三浦千代子さんと自治会長夫人の阿部きくみさんが迎えてくださいました。

津波で小さな町の建物は大部分が流失してしまいました。危険が迫っていることを感じた人たちは他の住民にも声掛けし、また動けないお年寄りらを背負ったりして、一緒に高台に逃げたといいます。 自分のことしか考えない生活が多い中で、ここでは今も、人と人が強く結びついた生活をされていると思いました。

人間だけではありません。「苗プロジュクト」で育った白菜を見る三浦さんや阿部さんの眼が活き活きとしていました。野菜のいのちが自らのいのちと一つにつながっていると感じられているかのようです。

津波が襲ったままの畝に、ニンニクの芽が出ていることを阿部さんが発見されました。根は困難を耐え抜き、ようやく芽を地表に出させたのです。

ニンニクが生きていたことをわが事のように喜ぶ阿部さんでした。

いのちといのちのつながりの中で私たちは生きていることを実感した訪問でした。(住)

2011.10月号

光より早いものの発見?


お彼岸のお中日にあたる9月23日、物理学の衝撃的な観測結果が発表されました。ニュートリノという素粒子が、これまで常識とされてきた「宇宙で光より速い物質は存在しない」という基本法則を覆して、光速より0.0025%早く飛んだというのです。

「光速より速いものはない」というのは、アインシュタインの特殊相対性理論(時間と空間の関係論)の一つで、現代物理学の基礎になっている考え方です。も し、光速より速くものが動けば、時間は過去に遡ることになり、空間や質量はマイナスになってしまいます。つまり、結果から原因が生まれることになるので す。これは、三次元の空間では(時間を加えた四次元でも)、説明がつきません。

ニュートリノに質量(重さ)があるということなので「光より速い」が矛盾するわけですが、もし、質量があるにしても、無いに等しい性質を持っていれば、特殊相対性理論を覆すことにはならなくなります。 それで思い浮かんだのが、阿弥陀さまです。お経によれば、阿弥陀さまは空間を超えて、一瞬にどこにでも現われてくださる仏さまです。しかも、質量がない ような性質を持たれ、羽もつけずに空中に留まっておられるというのです。それがすべての存在を包みこむ完全救済のはたらきになるわけですが…。

結果から原因にという捉え方も、仏教では従果降因(「仏」という結果から「菩薩」という原因に降りてくる意味)として説かれてきました。宇宙のなぞと、仏さまの不可思議が少し近づいた気持ちになりました。(住)

2011.9月号

異常気象が今や通常に!?


九月一日は防災の日です。制定されたのは甚大な被害をもたらした伊勢湾台風の翌年、昭和三十五年(1960年) 。その日は台風が襲来しやすい二百十日前後にあたり、死者行方不明十四万人を超えた関東大震災の起こった日でもありました。

制定されてから五十年経ち、自然現象も随分と変化してきたように思います。以前は四季の移ろいがあり、季節感がはっきりしていたように思うのですが、最 近は穏やかな春と秋が長続きせず、いきなり夏とか冬になり、猛暑や豪雨が頻発するようになりました。 印象に残っているのは、平成六年九月六日から七日にかけて池田・豊中を襲った豪雨です。文字通りバケツをひっくり返したような猛烈な雨と、途切れな く続くカミナリの光と音には恐怖を感じました。未経験の自然現象でした。実際、池田では一時間に百三十ミリ、四時間で四百ミリを超える雨量を観測し、一千 年に一度も起こることがない確率の現象だったようです。床上、床下浸水したご門徒宅も数件ありました。

しかし、あれから毎年、同じような集中豪雨が各地で局所的に起こり、近年は竜巻による被害も急増しています。そして、この三月には東北地方を中心に想像を超える巨大地震が発生しました。

地球温暖化や自然破壊が問題になっていますが、因果関係があるかどうかは別にして、人間の予想や認識を超える規模で、自然は大きく揺れ動いているように 思えてしかたありません。異常気象が通常現象になったきたという感じです。そんな中でいえるのは、自然を敵にまわすような考え方は止めて、自然に添いなが ら人間がどう工夫して生きていくかだと思います。(住))

2011.8月号

小さな生き物たちと人間の都合


お盆になると、いつも思い出すことがあります。小学生のとき、夏休みでセミ捕りを楽しんでいた私は、祖父から突然「生き物を捕ったらアカン!」と厳しく叱りつけられたのです。

「お盆以外は許してくれていたのに、なぜなんや?」と、当時は納得いきませんでしたが、今は「叱ってくれてありがとう!」と言いたい気持ちです。

祖父は「いのちは自分一人だけのものではない。目には見えなくても、いろんないのちにつながっているんや。先祖にも、セミのいのちにも…。だからどれも皆大切なんやで!」―お盆を機縁に、そんなことを言いたかったのではないかと思います。

今年は、セミの鳴き出すのが遅いので心配していました。多くの生き物が絶滅に瀕していて、やがてセミもいなくなるのではないかと、淋しかったのです。ようやくクマゼミが喧しく鳴き出したので一安心です。 うれしいことがもう一つあります。境内のひょうたん池で、メダカの赤ちゃんが大量に生まれたことです。大小取り混ぜて数百匹はいます。私は千匹はいると思うのですが、なかなか信じてもらえません。

池には、睡蓮の葉や水草が浮かんでいます。そこにたくさんの蟻がいて、動き回っています。ボウフラの抜け殻が漂っていたり、蜂の死骸もあります。さまざまな生き物が関係し合い、小さな宇宙ができているのです。

新聞では、妊娠初期に胎児の異常が発見できるようになり、人工中絶が倍増していると報じています。小さないのちの世界を見た目で、人間世界を見ると、都合ばかりが優先されていて、恐ろしくなりました。(住)

2011.7月号

仰ぎ聞く場としての「ナムのひろば」


新たに取得した北の境内地を「ナムのひろば」と名づけたいと思います。ナムというのは「南無」のこと。仏さまのお心を「仰ぎ聞く」ことです。大いなる真実に手を合わせ、「自分が知らされる」ーそういう場として、新境内地が発揮されれば?というのが私の願いです。

今の時代は、「聞く」ことをしません。とにかく自己主張が目立つ世の中です。自分の正しさを主張するために「発言」はしますが、「聞く」ことと言えば、自分にプラスになることだけのようです。

政治の世界、マスコミの世界、経済界や官界、教育界も、主張し合いばかりです。そして、日常の暮らしの中にも、それが沁み込んでいる現代です。

世界が激動する中、生きる目的や価値観が揺らいでいるこのときに、根本的な転換をはかることが必要でしょう。 ゴロッと変わるようですが、最後に、金子みすゞさんの詩で「聞く」視点の大切さを味わいたいと思います。

「朝焼小焼だ 大漁だ 大羽鰮の 大漁だ。浜は祭りの ようだけど 海のなかでは 何万の 鰮のとむらい するだろう。」

「母さん知らぬ 草の子を、なん千万の草の子を、土はひとりで 育てます。草があおあお 茂ったら、土はかくれて しまうのに。」

「上の雪 さむかろな。つめたい月がさしていて。下の雪 重かろな。何百人ものせていて。中の雪 さみしかろな。空も地面もみえないで。」

仏さまの眼差しに通じるものがあるようですね。(住)

2011.6月号

原発事故後の放射能問題


「想定外」の巨大地震と津波によって、東京電力福島第一原発の原子炉が損傷し、コントロールできなくなった問題は、その後も深刻な事態が続いています。

最近になって、地震当日にもう燃料棒が融け崩れていたことが明らかになりました。融け出す温度は二千八百度と言われていますから、そんな高温になってい たということでしょう。大変な状況だったにもかかわらず、テレビや新聞では「冷却水で燃料棒を冷やそうと試みても溜まらないので、海水注入も検討してい る」と報道されるだけで、炉心溶融にどう対処するかといった議論はなく、危機感が感じられませんでした。

その海水注入でも、首相の指示で一時中断したとか、いや中断せずに注入を続けたとか、もっぱら責任うんぬんの問題に終始して、肝心の放射能汚染をどう食い止めるかという根本課題は、どこかに飛んでしまっています。

その間も放射線は原発から放出され続けています。増え続ける高濃度汚染水をどう処理するのか、冷却作業の確実性はどうなのか、土壌汚染が子どもにどれほ ど影響するのかなど、対立するのではなく、皆が協力して少しでも迅速に、正確に把握していかなければならないときでしょうに…。

放射能汚染予報を海外には公表しても日本では報道されなかったり、関西電力が若狭湾の大津波の記録史料を無視して「記録なし」としたり、都合の悪いこと は隠し、「想定外」で自己正当化することなどはやめて、人間の不完全さ覚束なさを認めつつ、お互いが協力して精いっぱい生きる努力をしてみようではありま せんか。(住)

2011.5月号

スーちゃんのメッセージ


元キャンディーズのスーちゃんこと、女優の田中好子さんが亡くなられました。長い闘病生活の末、55歳で人生の幕を閉じられたわけですが、亡くなる前に 録音された肉声のメッセージが、葬儀の場で披露されたのには驚きました。その意外性と迫真性が、人びとの心を打ちました。

メッセージは、いのちと向き合いながら生きてこられたからでしょう、東日本大震災の被災者をまず気遣うところから始まります。田中さん自身が社会におけ る役割、立場を十分に認識されていた証です。「必ず天国で、被災された方のお役に立ちたいと思います。それが私の務めだと思っています」という言葉にもそ れが表われています。

続いて、自分に向けられた仲間や大勢の人たちの厚意に感謝する言葉が語られ、その後、自己の揺れ動く心を吐露されます。「映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった…」と。

締めくくりは、再び社会との関わりです。「支えてくださった皆さまに、社会に、少しでも恩返しできるように、復活したいと思っています」

この言葉から、私は親鸞聖人の「念仏して急ぎ仏に成りて、大慈大悲心をもって思うがごとく衆生を利益する…」(「歎異抄」第四条)という〈浄土の慈悲〉を思いました。「浄土に生まれ仏さまになって、今すぐ思う存分救いたい」という心です。

復活を待つまでもなく、キャンディーズで青春を過ごした世代にとっては、スーちゃんは浄土に生まれ仏となり、今はもう私たちの元に還ってきてくれているはずです。(住)

2011.4月号

震災で見えてきた人の絆と温もり


3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、地震の規模、津波の大きさ、深刻な原発事故の発生と、どれをとっても人間の想像を超えるものとなりました。

3月末現在で死者・行方不明者が約3万人、未だ把握できていない不明者も万単位でおられるといいます。海岸の町々では、壊れたり流されたりした船が一万艘。家も仕事もなくし、そして多くの家族を失われました。

生き残った人たちは喪失感とともに、悲痛・悲嘆の思いを胸に抱かれながら日々暮らしておられることでしょう。何十万人という人たちが避難生活を強いられ、また疎開を余儀なくされているのです。

悲劇的ともいえる状況の中ですが、しかし、被災者はくじけてはおられません。地震当初、ひとり難を逃れたお婆さんは「いのちあることがどれほど有り難い ことか、はじめてわかりました…」とおっしゃっていました。そのお心は例外ではなく、避難所におにぎりが届けられると、口々に「とても美味しく、助かりま す」と配る人に頭を下げて感謝されていました。ある小学生は「(避難所の)トイレの水くみをしているおじさん、毎日寒いのに私たちのために水くみしてくれ てありがとう」といい、別の女の子も「震災にあってから何度も人間の絆に助けられました」と感想を語っています。持ち船すべてを失った漁師さんも「ゼロか らの出発です」といいながら、漁師仲間と一緒に前向きに生きようとされていました。

人は、人の温もりを感じたときに、生きることの意味を見出し、蘇ることができる。そのいのちの原点が、震災を通して見えてきたように思います。(住)

2011.3月号

イスラム圏の独裁政権崩壊と民衆の力


イスラム圏の北アフリカ、中東の長期独裁政権が、1月のチュニジア政変以来、連鎖反応のように崩壊、ある いは崩壊の危機に瀕しています。圧政に苦しむ民衆の反政府運動が結集したからですが、死を賭してデモする民衆のエネルギーのすさまじいには、想像を絶する ものがあります。

それだけ、人が生きていくことが大変な状況であったのか、が伝わってきます。中東の国ヨルダンの民衆が掲げたスローガンは「パン、自由、社会的公正を」 であり「抑圧ではなく変革を」というスローガンは、政治への切実な願いでもありました。つい先日、民衆デモで死者が出たことが報じられたアラビア半島のオ マーンに、私は3年ほど前に行ったのですが、その時、インド発の格安航空機の乗客は、私以外すべてインド人でした。オマーンに出稼ぎに行く労働者たちでした。

一部のアラブ人、また石油等で恩恵を受けて人たちは少数派です。それ以外の多くの外国人労働者、あるいはアラブ人の中でも恩恵に預かれない人たちの生活 はけっして楽なものではありません。それどころか、格差がどんどん広がっていたことでしょう。それは、単に経済面だけでなく、精神面での不平等、抑圧が執 拗に続けられたことが容易に想像できます。

因みに、政権にあったわずか30~40年の間に、エジプトのムバラク元大統領は五兆八千億円を蓄え、リビアのカダフィ大佐も、英米にある資産だけで五兆八千億円を超えるそうです。

こうした権力者だけではありません。石油利権に群がる各国の企業人も、所詮「お金」だとしたら、こんな哀れで愚かな人間のすがたはありません。 (住)

2011.2月号

氷の中でも生きていた金魚に感動!


この冬は厳しい寒さが続いています。近年は凍ることが少ない境内の水たまりにも、今年はしばしば氷が張ります。

1月中旬の寒波の朝、境内のひょうたん池の金魚が気になり、見に行きました。案の定、分厚い氷に覆われて、金魚たちは身動きできない状態でした。 「ひょっとして凍りついてしまっているのではないか」「冷たいだろうなあ?」「こんな状態で生きているのやろか?」と思っただけで、可哀想になってきま す。

ひょうたん池の金魚は、一昨年の12月、大量に消えていなくなり、新聞で話題になりました。その直後、複数の読者から「金魚を譲りたい」と申し出があ り、持参してくださいました。今いるひょうたん池のほとんどはそのときに来た金魚です。暖房の利いた家の中の水槽から、吹きっさらしのお寺の池へ。環境が 激変しても、たくましく生きてきました。これが私だったら、とても耐えられません!
日射しが明るくなり、空気も幾分やわらぎはじめたお昼前、再び、ひょうたん池へ行くと、氷の下で、なんと何匹かの金魚が尾っぽを動かし泳いでいるではありませんか。うれしくて、またホッとする思いでした。と同時に、金魚の頼もしさ、いのちの不思議を感じたのです。

昨年の冬は、インターネットで購入した熱帯性のニームの木が枯れて、死んでしまったと思っていたのが、春になって新芽が出したので感動した、という話を紹介しました。このときもいのちの不思議を感じました。

考えてみると人間だけでなく、さまざまないのちのかたちがあります。金子みすゞの詩「わたしと小鳥とすずと」ではありませんが、どのいのちもかけがえがなく、すばらしいものを持っている?そのことを金魚は改めて教えてくれました。 (住)

2011.1月号

日は毎日繰り返し昇るけれども…―― 限りある私だからこそ本物に出逢いたいと思う


年末年始は寒波襲来で、初日の出が見られないところが多いかもしれません。しかし、見えようが見えまいが、時は確実に刻み、日は確実に東の空に昇ってきます。
いくたびか迎える新しい年ですが、「一年一年が短くもあり、長くもある」というのが正直な感想です。「短い」と言ったのは、振り返ると、あっという間に 過ぎ去った感があるからです。年々そのスピードが増しているようで、今年、60歳の還暦になるのですが、30歳代から、気がつけば、60に手が届くところ まで来ていたというのが実感です。浦島太郎の心境です。

「長い」と言ったのは、いつも年末になるとその年に亡くなった方がたがテレビ等で紹介されますが、それを見ていると、一年でこんなにも多くの懐かしい 方々が亡くなったのか、と驚かされるからです。十大ニュースを見ても、次々といろんなことが起こっており、その量や質の濃さに圧倒されてしまいます。

そして自分自身、「時の長さ」を実感させられるのは、体が弱っている時です。心臓の鼓動の一回一回、呼吸の一息一息は、実はエネルギーのいることであ り、こんなにも繰り返し繰り返し、よくできるものだと感心させられ、ずーっと続けて行くことの大変さを思い知らされます。一年の重みが感じられるというこ とでしょうか。

ともあれ新年を迎えることができました。今あることを喜びつつ、本物に出遇い、それを味わい噛みしめる生活をしたいと思います。何しろ毎日、繰り返し日は昇りますが、浴びることができる回数には、限りがあるのですから…。 (住)

2010年の『正福寺だより』です

2010.12月号

北朝鮮砲撃後の有り方


11月23日、北朝鮮は韓国の延坪島(ヨンビョンド)を砲撃し、多数の民家を破壊、四人の犠牲者を出す惨事を引き起こしました。

この出来事は日本でも報じられ、島民の避難する様子や、砲撃跡の惨状が鮮明に映し出され、北朝鮮の「蛮行」に衝撃を受けた恰好となりました。

韓国国内はもちろん、北朝鮮に不信感を募らせる日本人の多くが反発しました。事実、軍事的対応も辞さないとする韓国大統領の談話や、臨戦態勢の米韓合同演習など、今にも戦争になりそうな、またそれを後押しするかのような気運が湧いてきたようです。

私も、つい「戦争勃発への期待感?」を不謹慎ながら、わが胸に抱いたのです。 しかし、その思いは、第三者の無責任な感情の発露でしかないことを、すぐに思い知らされました。一つは、韓国の世論調査で、北朝鮮に対して、砲撃後も支援と交流を進めるべきだとする人が三分の二を占め、戦争に拡大することを望まない人が大多数だったことです。

そして何より、被害を受けた延坪島の島民自身が戦争を望まず、早く自分たちの生活に戻りたいという声を発していたのでした。

尖閣問題や朝鮮半島の不安定化で、沖縄の米軍基地の重要性を改めて主張する意見もあります。しかし、もっとも戦争を身近に体験した沖縄県民が、基地に反 対しているのです。原爆を落とされ、甚大な被害を被った広島市民が、二度と戦争を起こしてはならないと平和運動を続けておられるのです。「怨みを怨みで返 してはならない」ことを、今、肝に銘じたいと思います。 (住)

2010.11月号

地検特捜部検事の逮捕で見えてくるもの


郵便不正事件の捜査で、証拠品を改ざんしたとして、大阪地検特捜部の主任検事が逮捕され、また上司たちも犯人隠避罪で起訴されるという特異な事件が生じました。犯罪を摘発する側が、犯罪を行う側になってしまった格好です。これもまだ断定はできませんが。

警察、検察が犯罪を立証するためには、まず犯人に目ぼしをつけ、その人物を犯人と仮定して、証拠集めや供述を導き出そうとするのでしょう。言わば、予断 と偏見から捜査は始まります。しかし、その後の証拠固めや真相追究に、予断と偏見は許されないでしょう。ただ客観的な事実を積み重ねるしかないです。

その鉄則が無視(あるいは軽視)されて、予断に基づいたストーリーを構築し、犯人を決めつけてしまうところでした。なぜ、そんなことをしたのか?理由 は、「大物」を逮捕して、地検特捜部の存在感を知らせるため、とか言われています。以前、ある事件で新聞社の取材を受けたことがあるのですが、話の中で記 者は「地検は次に誰それを狙っています」という表現をしてびっくりしたことがありました。犯罪を究明するというより、誰を逮捕するか、で動いているような 口ぶりだったからです。

これでは本末転倒です。正義の神であったはずの阿修羅が、「不正」を働いた帝釈天を成敗しようと戦ううちに、憎しみだけが募って「軍神」になってしまった話が頭に浮かびました。

「正義のため」が、「慢心や名誉心のため」にすり替わっていないことを望むばかりです。

その後の検察の対応や、特捜部存廃の動き、起訴された元幹部の発言などからは、ドロドロとした人間のエゴが見えてくるだけなのですが。 (住)

2010.10月号

金色に輝いて見えたメコン河


8月下旬、ラオスのルアンパバーンという世界文化遺産の古都に行ってきました。

街には多くのお寺があり、毎朝托鉢が行われるなど、僧侶が人びとの暮らしに深く関わっています。 そんなルアンパバーンから舟でメコン河を遡りました。全長約4800キロの東南アジア最大の河です。さすが、その水量と勢いには圧倒されます。11人の ツアー客を乗せた舟はまるで木の葉のようです。とすると、舟の上の私たちは蟻ということになるでしょうか? 河岸の樹木も岩山も、もちろん人間も、メコン の流れを食い止めることはできません。上流に向って進む舟の傍らを2~3メートルはある流木が、次々と通り過ぎます。

すべてを呑み込んで流れるメコン河の色は、泥色です。1センチ先も見えないほど濁っています。舟の下には魚たちや、大小多くのいのちがうごめいているこ とでしょう。しかし何も見えません。「河の中の生き物は敵味方をどうやって見分けるのだろうか」、「見えないと淋しいだろうな」と、そんなことを考えまし た。

出発して2時間半。たどり着いた小さな村では、蛇やサソリが酒に浸けられて売られていました。熊や猿がいて、さらに奥には虎もいるのだそうです。メコン 河の懐深く入ったことを実感するとともに、改めてメコンの大きさを思いました。メコン河は、その流域のありとあらゆる動植物を育て、人びとの暮らしを支え ているのです。時にはぶつかり、時には反発しながら生きているそれぞれのいのち。そのすべてを包みこんでメコンは流れている。再び舟に乗って、流れを見つ めていると、泥水が金色に輝いて見えてきました。 (住)

2010.9月号

百歳以上の大勢のお年寄りが行方不明に


百歳以上のお年寄りが大勢、行方不明になっていて、実態を把握することが困難であることがわかってきました。

九月は敬老月間です。言葉とは裏腹に、お年寄り受難の時代と言えそうです。しかし、消息がわからない人はお年寄りだけではありません。東京や大阪の繁華 街の片隅に、どれほど多くの路上生活者がいることでしょうか。届けられる行方不明者だけでも年間で十万人と言います。また、年間三万人の行方不明者が死ん でいるのだそうです。

都会では、隣りに住む人の顔も知らないと言います。人間関係の希薄さを物語る言葉でしょう。 もっとも、人が煩わしく、遠ざけたいと思う心もわからなくはありません。自分の生活を守るために競争に勝ち抜き、生き残らなければならないからです。自 分のことで精いっぱいで、他人まで面倒は見ておられないというのが本音でしょう。そういう世の中が出来上がっていたのでした。自分の利益に関わらない他人 には、当然、無関心になるわけです。

もはや、行方不明者の問題は行政の領域を越え、心の領域です。何を大事に生きるのか、また他者との関係をどう見るかは人生観、世界観の領域です。 今の日本人は、好きなものはとことん可愛がり、嫌いなものは徹底的に遠ざける傾向にあります。老も病も死も、嫌いな側として避けています。しかし、好き嫌 いを超えて受け入れる心を持ち、甘いも酸いもかみしめながら超えていくところに人生の値打ちや、人の有り難さが実感できるのではないでしょうか。嫌だか ら、面倒だから、というのではない人生観、人間観が今、求められていると思うのです。 (住)

2010.8月号

天候も人間社会も振幅大きい!?


大雨続きの梅雨が明けたと思ったら、連日の猛暑。さらに突然の豪雨が襲ったりして、今年の夏は天候の振幅 が大きいようです。何台ものトラックが軽々と水に流され、マンホールの蓋が浮き上がって道路下から水があふれる光景を見ると、自然の驚異と怖さを感じてし まいます。天候の激しさは日本に限りません。ロシアでは過去に経験したことがないほどの高温になり、その暑さが原因で千数百人の死者が出る始末。また中国 では大規模洪水で千人を超える犠牲者が出ているといいます。
これも地球温暖化なのでしょう。この異常天候とともに、私は、人間社会も「振幅の大きい」生活や考え方になってきているように思えてしかたありません。

固いアスファルトの道路は、軟らかな土を覆い、土が吸収するようには、降った雨を受け入れてくれません。鉄筋とコンクリートで作ったビルは上へ上へと延び、高さを競い合っています。

何でもランク付けするのがよいみたいで、企業の売上高から就職人気度、大学のランキング、映画の賞や、耳の毛の長さまでランク付けして、とにかく一番に なるために競い、また目標にします。地位、肩書、名誉…そういった線引きと型はめで、人間の生きがいや値打ちを見出そうとするようです。当然、線の内側に 入るのと、外側では大違いです。その振幅の大きさほどに、人間の尊さ、いのちの尊さに差があるというのでしょうか?

先日のキャンプで、タープという覆いを張ったのですが、そのとき、細い棒と紐だけで支えている布の屋根に、さっそくアリが三匹登っているのを見つけまし た。人間の作ったところに、土からわざわざ登ってきてくれたことを思い、連帯感と親しみを覚えました。そういう軟らかい生き方、味わいが大切だとは思いませんか? (住)

2010.7月号

「私」という中身を見ない世の中


参議院の選挙戦が展開されています。昨年、民主党政権が誕生し、政治改革に期待が寄せられたのですが、 思うように進まず、公約の実行もできない状態が続いて、ついに首相の交代を余儀なくされました。こうした一連の政界の動きを見て、改めて政治は難しいもの だと思いました。

と同時に思ったことがあります。それは「自分はどうするのか?」という「自分」が見えてこない世の中であるということです。例えば「普天間基地の移設」 問題なら、まず根本に、武力を持つこと(ここでは米軍の戦力)が必要かどうかを、自分のこととして考える必要があるでしょう。本当に必要と思えるなら、戦 略的なこともあるにせよ、沖縄ばかりが負担することはなくなるでしょう。

高速道路の無料化、ダム建設の凍結、消費税率アップの議論も、基本には経済のしくみをどう変革していくかなのですが、個々の事柄についての賛否(反対の 主張ばかりが目立つ)だけで、自然環境(人と自然との関係)にどう向き合うか、という世界観が、人びとの思考から欠如しているように思えるのです。

宮崎県の家畜に拡がった口蹄疫で、動物たちは物として「処分」「処置」されました。そういう生命観を日本人は持っていたのでしょうか。

大相撲の賭博問題も露呈しましたが、今の世の中、「それはダメだ」「こうすべきだろう」と他者への非難は声高に叫ぶものの、「私」自身の生命観や世界観、そして生きざまという中身が見えているのかどうか?

まずは「お恥ずかしくて見せられない私」に気づくことが、大切なように思うのですが…。 (住)

2010.6月号

異郷の地で逞しく生きるヤンジンさん


チベット人歌手・バイマーヤンジンさんの来日15周年記念コンサートが大阪であり、聞きに行ってきました。

チベットの民族衣装や振り袖姿など4度も衣装替えする中、チベット民謡から西洋音楽、日本の懐かしい歌までを豊かな歌唱力で歌い上げ、文字通り15年の 歩みを披露され、感動しました。 ヤンジンさんの故郷はチベットのアムド(四川省)というところです。なにしろ不便なところで町に出るのに丸2日かかるそうです。日本人のご主人と結婚した ため15年前に来日。電気も自動車も病院もないところから、近代文明の大都会・大阪にやってきて、あまりの違いに驚きの連続だったと言われます。
激変する生活に、ふつうならショックで滅入りそうなのですが、ヤンジンさんはくじけません。逆にバネにして大きく飛躍してこられました。笑顔を絶やさず、誰にでも親しく誠実な心で接しておられる姿に、いつも感心させられるのです。

四川大地震と青海省大地震という二つの大災害で、多くのチベットの子どもたちが犠牲になりました。子どもたちに教育を受けさせたいと学校建設を進めるヤ ンジンさんには、とても辛い出来事でした。ブログで「今すぐ飛んで行きたい」と語られるほどでした。しかし、その悲しみを越え、コンサートでは万感の思い でチベットの「祈りの歌」を歌われました。

自分を育ててくれた故郷に感謝し、何があっても自分の歩む道を見失わず、人びとに親愛の心をかけて逞しく生きられるバイマーヤンジンさんに、仏さまのおもかげを見る思いがしました。 (住)

2010.5月号

チンパンジーも死を悼む


野生チンパンジーの母親が、死んだわが子を長期間背負って、その死を悼む様子が、京大霊長類研究所によって確認されたそ うです。「死んだらおしまい」ではなく、「死んでもなお大事な存在」として認識する心がチンパンジーにはあるということに感心させられ、また心が動かされ ました。

言うまでもなく、人間は人の死に哀悼の心を催すものだと思うのですが、前回取り上げた児童虐待や、トイレに赤子を産み落として放置する事例が頻繁に ニュース等で流されると、「フム?」と思ってしまいます。輪をかけて、最近、出版された『葬式は要らない』という本が売れていると聞くと、なおさらです。

改めて思うのですが、「死を悼む」心が「弔い、葬る」行為を起こさせるのでしょう。悼む心は死せる存在に重みを持たせます。そしてその扱いを丁重にさせ て、儀礼を形成し、厳粛な気持ちの中で、事実(真実)を受け入れ、喪失感に伴う哀しみを超えていく力を生じさせてくれます。まさに葬儀の意義は、死の中に 永遠の価値を見出すことなのです。

個の死を通して、その存在の大切さを認識し、個を超えた普遍的なものを見出していくのが、人間の哀悼の心から続く自然な営みです。そして普遍的な価値を見出したとき、人は自ずとその普遍なるものを拝礼し、敬うのです。

逆に言えば、敬いのない葬儀は、中身のない形だけのものになります。思い出話ばかりのお別れ会や、敬いのない友人葬では、他人事になりがちです。直葬というのもあるそうですが、死を悼む心が自分の死の超克になったときこそ、本物の葬儀と思うのですが…。 (住)

2010.4月号

児童虐待に思う


児童虐待事件が連日、紙面を賑わしています。子が言うことを聞かなかったり、泣き止まなかったりすると腹を立て、壁にぶ つけたり、頭を振り回したり、暴力をふるって死に至らしめたケースや、憎たらしいので食事を与えず餓死させたケースなど、親の身勝手さが目立つ事件が多い ようです。

2008年の統計になりますが、全国の児童相談所が把握した虐待件数は、過去最悪の四万二千六百件を超えたそうです。

これだけの数になると、虐待を行う親たちを「例外」として排除するわけにはいかないでしょう。 今の人間社会の精神環境が、いかにギスギスとしていて、大らかさや包容力に欠けているかが見えてくるようです。

人と人が信頼で結ばれることが少なく、お互いが疑心暗鬼で、相手の欠点をあげつらい、競争相手に蹴落とされないようにつねに身構えて生きる。

そういう人間関係に疲れた人びとは、自分の世界に浸り、気に入ったことにしか関心を示さず、自己の感情のままに生きようとする。

また気に入れば極端に執着し、嫌なものや、関わりのない人、対象には全く無関心、無頓着になってしまう。そんな日本人像が目に浮かんできます。

自分が認識しようとすまいと、自分の知らない大きな営みが、私を丸ごと包みこんで生かしてくれている。その事実に気づいて日々生きている人が、今の日本人にどれだけいることでしょうか。 昨年の秋、訪れたミャンマーの「貧しい」村の子どもたちは、村のお坊さんや先生や親から、大きくて沢山の慈愛に満ちた心を浴びて、屈託のないこぼれんばかりの笑顔を、私に振り向けてくれました。
一遍、何が大切か、考えなくてはなりません。(住)

2010.3月号

フィギュア・スケートを初めて観て…


バンクーバー・オリンピックで初めてフィギュアスケートなるものを観ました。もちろん、これまでもテレビの ニュースやスポーツ番組で部分的に見たことはありましたが、一人の演技者が滑る始めから終わりまでをじっくり観たことはありませんでした。しかも、それが 一人分だけではなく、五、六人分、立て続けに観たのでした。

連日「真央、ヨナ、決戦!」といった文字が新聞の見出しを飾り、テレビでも特別番組で放送されるなど、異様な盛り上がりを見せていたことが、私にそうさ せたのだろうと思います。だいたい、あのように飛び上がって何回も体を回転させて、成功したら拍手をし、失敗したら残念がるような競技に興味はありません でした。「いつ尻もちを着くかしれない」とビクビクしながら観ていても、一つも楽しくないからです。

ところが、男子フィギュアの高橋大輔選手が滑るすがたをニュースで見たときに、単に回転がうまくいったかどうかではなく、何か全身からにじみ出るような思いを感じたのでした。それで、女子フィギュアも観ることになったのだろうと思います。

鈴木明子という選手が滑ったときも、体から溢れる思いが伝わってきました。安藤美姫選手も、これは贔屓目かもしれませんが、ありったけの自分を表現しているな、と感じました。

そして注目のキム・ヨナ選手、浅田真央選手は、確かに若くて体がしなやかな感じがしましたが、技術的にうまいかどうかということだけで、もう一つ伝わってくるものはありませんでした。

世間ではメダルの色と数に目が行きがちですが、まったく別な見方をしている者もいることを知っていただければと思います。(住)

2010.2月号

「思い込み」の怖さ


足利事件の菅家さんの再審裁判が行われています。再審が行われることになった経緯を思いつつ、改めて思い 込みの怖さを思い知らされました。警察ならびに検察は、当時のDNA判定を踏まえて、菅家さんが犯人だと確信しました。その思い込みに帳尻を合わせるかの ように証拠を集め、目に見えない圧力ともなって菅家さんを嘘の自白に追い込み、犯人にしたて上げたのでした。

思い込みは裁判所やマスコミにも浸透し、菅家さんを「やっていないことを、やった」人にしてしまいました。一人の人生を翻弄したことになるのですが、こ れはけっして他人事ではありません。人を見る目がいかに「思い込み」に左右されるか、私たちの日常でも思い当たることが多いのではないでしょうか。「善 人」がある日突然、「あんな人とは思わなかった」になり、「今も信じられない」というように、評価が急変することが少なくありません。

民主党の小沢幹事長に対する目でも言えるでしょう。私たちの感覚からすれば、小沢幹事長の金銭体質はどう見てもおかしいと思います。ならば、そういう政 治家に投票しなければいい話です。しかし、その不快感と、あるいは政治への不信感と、法律に抵触する行為をしたということは別問題です。検察が、小沢氏を 「思い込み」で取り調べて帳尻合わせの証拠を積み上げ、さらにマスコミも単に追従して「犯人」扱いするようならば、それは菅家さんの二の舞になりかねませ ん。事実を明らかにすることの難しさとともに、偏見、予断の怖さを、菅家さんの再審は私たちに語ってくれているように思いました。(住)

2010.1月号

年々薄れるお正月らしさ


子どもの頃、お正月が近づくと、「もういくつ寝ると…」の唱歌ではないが、心がウキウキしたものだった。 元旦には真新しい肌着と靴下が用意され、セーターやジャンパーも新調したものが着れる?。そう思うだけで新鮮な気分になれたし、めったに会わない親戚の子 たちが集まってきて、一緒に凧あげや独楽まわしやカルタ取りなどをして一日中、楽しく遊んだ。

お正月を「特別」と感じさせたのは、それだけではない。元日の朝は、お参りの後、祖父を上座に、一家七人が勢ぞろいした居間で、声をそろえ「あけましてあめでとうございます」と言いつつ、お屠蘇やお雑煮をよばれるのである。

その他、お年玉があり、年賀状があって、商店街からは人の往来が消える…。こんな特別な雰囲気が漂う時は、お正月以外にはなかった。

今は、お正月を海外やホテルで過ごす人が多くなったという。元日から開いている店はコンビニに限らず、飲食店や量販店など多種にわたり、百貨店前の通り などでは福袋を持った人たちでごったがえす。凧あげや羽子板をする子どもは見かけなくなり、おせち料理も家庭で作らず、買う時代になった。もはやお正月が 特別な日ではなくなった感が強い。

それが私には寂しいし、残念にも思う。「一年の計は元旦にあり」と意気込んでもしかたないことだが、「お正月」はわが人生の一年一年にメリハリをつけ、 見つめさせてくれた。私が経験した「お正月」は、家族を通して、いのちの縦と横のつながりを確かめる行事だったように思う。除夜の鐘をつき、「ゆく年くる 年」を越えて迎える「お正月」が、我々のいのちの有りようを知らせてくれると同時に、いのちのぬくもりをも伝えてくれた。その大事なところを何とかして後 世に伝えていきたいものだ。(住)

2009年の『正福寺だより』です

2009.12月号

デフレ現象に思う


近年の不安定な経済状況の中で、また新たな波風が立ち始めました。デフレと円高が同時進行しているそうです。

テレビの解説などを聞くと、デフレは低価格でなければ物が売れず、儲けが少なくなり、やがて従業員の給料が減らされ、結局、消費も減少する…その繰り返 しで、経済活動が衰退する現象なのだそうです。要は物価が下落し続けることなのですが、それがさもいけないことのように報道されるので、人びとの不安も募 るというものです。

円高にして、輸出企業は利益が減少するでしょうが、輸入企業は利益が拡大します。結局、デフレにして、円高にしてもプラスマイナス両面があるものです。

そこで思い浮かべるのが、先日実施された各省庁の事業仕分けです。なぜこんなことをするのか、それは国の収入(税収)に対して、支出(予算)が倍以上になっているからです。お金がないのに使うので、当然、借金だらけになってしまいます。

国だけでなく社会全体が、必要以上に使いすぎている、無駄に消費しすぎているのではないか、と私などは思うのですが。先日、訪れた東京の新宿で、どこが 実際の地面かわからないほど幾重にも道路が重なっていて、目の前のビルに行くのにも苦労しました。土の見えない人工物だらけの生活が果たして必要なので しょうか?「経済成長が人びとの暮らしに不可欠だ」とし、消費を促進し続ける経済成長“神話”は今、温暖化を象徴として根本的に見直すときに来ているのではないでしょうか。デフレは、人びとの生き方を問うているのかもしれません。(住)

2009.11月号

ミャンマーののどかな村の寺子屋へ


10月16日、私はミャンマーのエヤワディー河デルタ地帯にあるのどかな村のお寺を訪れました。ぬかるみと凹凸の悪路をジープで進みこと二時間、体はヘトヘトになりましたが、目に映る光景は、輝きに充ちていました。

道に沿って続く水路では、水牛が気持ちよさそうに大きな体を沈め、アヒルたちは、賑やかな声を発して泳いでいます。干し草で作られた家屋のそばでは、子どもたちが牛やヤギと戯れ、道端の犬や豚は、地面に鼻を近づけて、エサ探しに夢中です。

水路の向こうはどこまでも水田が拡がっています。青い空に白い雲…。さまざまないのちが私に安らぎをもたらしてくれたのでした。

ようやく着いたお寺では、多くの子供たちが集まってくれていて、ご住職や村人たちと一緒に私たちを歓迎してくれました。地元で採れたエビや野菜を使った 手作り料理の饗宴に、かわいい園児たちによる歓迎の踊りなどです。生活は貧しい地域と聞いていましたが、人びとの心の目は透き通るようにきれいに感じまし た。

村人たちに「この村の魅力は何ですか?」と尋ねてみると、口々に「どんな時でも、皆が助け合い、お寺を中心に心の絆で結ばれていることが一番の魅力だな」と語ってくれました。

人間に限らず、動物も木々の緑も、すべての命が活き活きとして調和している様子は、仏教で説く「縁起の法」そのものでした。人間として大事なことを、ミャンマーの村で気づかせてもらいました。(住)

2009.10月号

政権交代で見えてきたこと


先の選挙で民主党が大勝し、長年続いた自民党政権にピリオドが打たれました。新たに誕生した鳩山政権では、脱官僚依存・政治主導を旗印に、国民目線で政策を再構築し、すみやかに実現していこうという姿勢が見られます。

ダム、高速道路、新幹線など土木・建設工事の中止や見直し、子ども手当や農業の戸別所得補償など個人に向けられる支援策、天下り・渡りと呼ばれる官僚の 特別待遇の禁止、そして、鳩山首相の国連での温室効果ガス25%削減宣言なども、前政権の元ではとうてい成しえない内容のものです。 そういった政策が打ち出せたのは、政権交代があったればこそでしょう。明治維新以来の、あるいはそれ以上の変革になるかもしれません。

というのは、これまでの日本は、力の強い者が支配し続けてきました。戦後でいえば、経済を支配する大企業ら財界であり、それをバックアップする政治家と 官僚であり、そこに結びついたマスコミ、御用学者陣でした。政・財・官らの見事な連携(癒着)のもとに、国民目線ではなく、支配者目線で日本の国が動いて きたといえましょう。

国民の税金の使われ方も、息のかかった組織・団体を通してでした。団体がなければ新たに創って資金を回しました。それが天下り先となり、無駄や不正の温床になったといえます。

これまで組織・団体の箱物を通してしか伝わらなかった政策やお金が、国民一人ひとりに届く…その試みが、今回の政権交代で行われようとしているのではないでしょうか。仏の救いが一人ひとりの上にあるように、政治も一人ひとりのためにあってほしいものです。(住)

2009.9月号

ブレない落ち着き先があることが有り難い!


早いもので、この八月、住職になって丸二十五年が過ぎました。門徒さんや他寺院の僧侶方、またさまざまな ご縁の中で出会った多くの人びとに支えられ、今の自分があることを改めて感じています。 と同時に、個人も社会も、一ときも休まず変わりゆくものだということを実感します。特に、人の評価や世間のものの見方の何と目まぐるしく変わることで しょうか。「こんなはずではなかった」「信じられない!」という言葉を幾度となく聞き、そうした行動に接してきました。その都度、胸が締め付けられまし た。

夏目漱石の『草枕』にこんな言葉があります。「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される…」―ものの有るべきすがたにこだわれば反発を喰らい、人の感情に同化していくと道理が見えなくなります。そのバランスが難しいものだと私も痛感させられます。

人は善も悪も併せ持ち、父であると同時に夫であり、子でもあるのです。ひとりの人間を百人が見れば百通りの見方があります。しかし、どの見方もその人の一部を見ているに過ぎません。人として存在している中身は無限の縁で成り立っているからです。

そんなことで、私自身も多くの顔を持っています。他に寄り添う心、仲良くしたい心、驕る心、恐怖心や憎しみの心など。

おぼつかない二十五年でしたが、ただ一つ言えることは、私にはブレない落ち着き先があるということです。揺れ動く私をけっして見離されない阿弥陀さまがついていてくださるということ。そのことがなんとも有り難いのです。これからもよろしく!(住)

2009.8月号

このいのちの還るところ


若田光一さんが、四か月間の宇宙ステーション滞在を終えて、七月三十一日、地球に帰還されます(30日記す)。帰還前の記者会見で、若田さんが語った言葉が印象的でした。

「日本に戻ったら、温泉にゆっくり浸かって、お寿司と冷やしたぬきそばを食べたい」。またこうも語っていました―「妻や子どもらと電話で話すと、まるでオアシスを見ているように心がほっと落ち着いた…」。

なるほど、と思いました。宇宙に憧れ、選ばれて宇宙飛行士となり、実際に地球の大気圏外に出て行なった大切な仕事です。やりがいや充実感はひとしおだったことでしょう。

しかし、ただ宇宙に飛び出しっぱなしでは、はたしてりっぱに任務を遂行できたでしょうか? まして心の充実ははかられたのでしょうか? 私が想像するには、きっと平常心ではおられず、仕事も手に着かなかったのではないかと思うのです。

若田さんが長期にわたる過酷な宇宙環境に耐え、任務を遂行できたのは、「(若田さんに)還るところがあったから」ではないでしょうか―。還るところとはすなわち、地球であり、日本であり、家族であり、慣れ親しんだ食であり、大地としての環境だったのでしょう。

自分には、還る場所があり、待っていてくれる人がいる―ただ、それだけで、人間は生きていけるものです。逆に、それが見出せないから、心惑い、行先も決まらず彷徨うのかもしれません。

阿弥陀さまのお浄土から、「人生を終えたとき、おまえが還るところはここだよ!」と呼びかけてくださるお方がいることの有り難さを、改めて思いました。もうすぐお盆です。(住)

2009.7月号

脳死は人の死?


「脳死は人の死」と認める臓器移植改正法案が衆議院を通過し、今参議院で審議されているところです(6月30日現在)。この法案が成立すると、十五歳未満の子どもの臓器も家族の同意があれば、脳死状態での移植が可能になります。

ところで、この「脳死は人の死」とする判断は、いのちをどうみるかという本来的な生命(いのち)観ではなく、現状に適応させて解釈した「ご都合」による 判断としか思えません。つまり、法案の名称からもわかるように「臓器移植のため」に結論づけた概念(というほどの普遍性も見出しにくい…)と言えましょ う。

しかし、脳死の定義にしても、死そのものにしてもどこで線を引くか、そして実際の判定となると、その境目はおそらくどこまで細分化しても明確にはならないと思います。

現に脳死状態から回復したというニュースを最近、耳にしましたが…。現在は心肺停止状態で「死」とされているのでしょうが、これも、細胞の多くはまだ生きています。24時間は火葬しないというのも、「死の縁、無量」であり、境目が不定だからでしょう。

大事なのは、根本的ないのち観が先にあって、そこから現実の対応が生まれるのです。今の論議は、本末転倒と言えましょう。

人間が、自分を起点にいのちを見れば、子の命も親が作るものでしょうが、実際は、親は何一つ作ってはいないのです。大いなる無量のはたらきがいのちとな り、それを「子が授かる」と表現したのです。いのちを人間の手によって左右させることの傲慢さと、生死を超えたいのちの有りようを見る目の欠如が気になり ます。 (住)

2009.6月号

新型インフルエンザ騒動!


4月下旬、メキシコで感染が報告されて以来、またたく間に拡がった新型インフルエンザ。1か月経って、感染者は世界55カ国で1万5千人を超え、日本では関西を中心に 367人の感染が確認されています。

それにしても空港での警戒ぶりは異様でした。防護服に防護マスクを着けた完全装備の検疫官が機内に入り、乗客一人ひとりにサーモグラフィーを当てて異常 がないかを調べました。感染の疑いがあると即隔離です。近くに座っていた人たちもホテルで、これも隔離状態です。そのものものしさから、日本へはウィルス を絶対侵入させないとの強い意志が感じられたのですが、実際はそうではなく「侵入の時期を遅らせただけ」(厚労相言)だったそうです。

ともかく、それから大騒動が続きます。神戸や大阪で人から人への感染が確認されると、「神戸に行った人は自宅待機!」という自治体が現れたり、多くの感 染者を出した学校の生徒というだけで誹謗中傷されたりして、それを「当然でしょ…」という善良な市民 ? もいたりする始末です。マスクが一斉に、また大量に買われて品切れが続出、数万円の高値で売り付けて大儲けしようとする人たちも現れました。

それが、つい最近、関心が急激に薄れてきた感があります。慣れてきたのでしょうか、関心がほかに移ったからでしょうか、マスクへのこだわりもなくなり、ニュースの扱いも小さくなってきました。でも、今年の冬は、どうなることやら?

一連の騒動に接して、気になることがあります。それは都合の悪いことに対する拒絶反応の大きさと動揺ぶりです。いのちの尊厳がどこにあるのか、見極めることの大切さを思うこの頃です。(住)

2009.5月号

総「介護」時代


俳優の長門裕之さんが、妻の南田洋子さんを介護していることをTVや本で告白され、大きな反響を呼んだ矢先、今度はタレントの清水由貴子さんが、「介護疲れ」からか、要介護の母親の前で自殺するという悲しい出来事が生じました。

急速に進む高齢化社会、介護の問題はけっして他人事でないことを改めて知らされました。かく言う私も歳になる母親がいます。老人性認知症が表われ、本人も家族も悪戦苦闘しているところです。
その苦闘ぶりの一端をご紹介しますと、母親にとってみれば、物忘れがひどくなった事実を知らされれば知らされるほど、自分を情けなく思い、責めます。腹 立ちまぎれに物をぶつけたりするようです。そして、自分を励まし、しっかりしなければいけないと思い何回も何回も確かめます。しかし、それが却って執着心 となり、「物が無くなった。泥棒に盗られた」という妄想を引き起こし、ますます動揺してしまうのです。

介護する私たち家族も、悲しいかな、きちんと対応していません。何回も尋ねられると「いま、言ったやろー」と面倒くさそうにいってしまうのです。そしてオタオタする母親を叱り、納得させようと声を張り上げるのです。つまり、母親の気持ちに沿えていないのです。

そのギャップの大きさに戸惑い、埋められない溝に呻く私たちの心の葛藤。もっといえば、人間の本性が垣間見られることの辛さ、苦しみが介護「される人」、「する人」の双方にあるのです。

人の人生は皆、違うものでしょうが、それでも「介護」が、すべての人の生きざまに直接関わるものとの自覚を持って、それをどう位置づけるか、価値づけるかが、今、私たちに問われています。(住)

2009.4月号

WBC優勝の喜びの中身


WBC(世界野球選手権)で日本が優勝し、久しぶりに日本中が熱狂の渦に包まれました。なぜここまで盛り上がったのでしょうか? その背景をうかがい知る象徴的な言葉がありました。イチロー選手です。

期間中、不調にあえぐイチロー選手は「敵のユニホームを着て戦っている」と感じ、ヒットを打って初めて「日本のユニホームが着れた」と思った、というのです。選手は皆、日本国という重い荷物を背負って戦っていたのでした。

特に日本という国を意識させたのは、韓国チームでしょう。WBCでは、日本が試合をした9回のうち5回までが、韓国相手でした。結果は三勝二敗。互角の戦いです。昨年の北京五輪では、日本はメダルを逃し、韓国は金でした。

今回は「なんとしても勝たなければならない」?これが日本チームに課せられた使命だったのです。
野球に限らず、サッカー、スケートなど多くのスポーツで、韓国が今、日本に迫り、追い抜こうとしています。そういう圧迫感を感じている日本人が多いのではないでしょうか。

迫りくる「敵」が意識されたとき、同じ立場にいる人たちは集まり、団結します。そして、敵に負け続けば、うっぷんは蓄積され、そのうっぷんが多ければ多いほど、勝ったときの喜びは大きくなるというのが、人間の習性のようです。

まもなく、北朝鮮が衛星かミサイルか知れませんが、ロケットを発射されるようです。日本は迎撃ミサイルを配置して、北朝鮮という「敵」に対峙しています。その心に相当の鬱憤が溜まっているとしたら、事態は深刻です。

溜まっているのは正邪は別にして、お互い様なのですから…。「対立から共生へ」の道を諦めてはなりません。 (住)

2009.3月号

「おくりびと」と原作


死者の身だしなみを整えて棺に納める「納棺師」にスポットを当てた『おくりびと』が、アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、話題になっています。 主演の本木雅弘さんが十数年来、温めてきた企画だそうで、原作は青木新門さんの『納棺夫日記』です。

本木さんは原作を読んで「〈老人の遺体に湧いた蛆(うじ)が部屋中にうごめき、それらを捕まえようとすると、必死に逃げるのを見て〉蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」という文章が印象に残ったそうです。

青木さんは、本の中で、生と死という概念を超えた「光」の存在に言及されます。特に親鸞聖人が味わわれた阿弥陀仏の不可思議光(如来)に、繰り返し触れ られているのです。それは、死を単に終焉として見るのではなく、また生きている者の価値観の延長線上で捉えるべきものでもないことを示しています。

生と死を貫いて、けっして崩れることのない、かたちを超えた大いなるものに包まれていることに気づいたとき、すべてのものが輝いて見えると、青木さんはおっしゃりたかったのだと思います。本木さんも、そういう宇宙的、宗教的視点に惹かれたのでしょう。

しかし、実際に作られた映画は、そこまで掘り下げて提示することができなかったようです。肝心なのは死をどう捉え、どう超えていくか、だと思うのです が、映画では、生きている私たちの感覚で死者と触れ合い、死者を依然として生きている他者としてこちらから「送っている」にすぎないようです。
ただこれまで避けてきた「死」を見つめるキッカケを与えてくれたことは、大いに歓迎すべきことでしょう。 (住)

2009.2月号

発展・繁栄の発想を変えてこそ…―― オバマ新大統領のチェンジに期待!


アメリカ合衆国の第44代大統領にバラク・オバマ氏が就任しました。初の黒人大統領誕生は画期的なことで あり、アメリカ国民の民主と自由の精神がいかんなく発揮された結果といえるでしょう。しかし、それだけ社会的、経済的危機が深刻であったともいえそうで す。つまり、米国民は、この閉塞状況からいかに脱出できるか、そして希望の持てる未来が開けるか、に強い関心を向け、かつ心を砕いていた状況でした。その 期待に応えたのがオバマ氏だったということです。

オバマ大統領は、予備選挙の段階から、さかんに「変革」を強調していました。「そうだ、私たちはできるんだ!」「変えることができるんだ」と、繰り返し語って、人びとに希望と、団結の大切さと、勇気を与えたのでした。

「黒人がいるのではない。白人がいるのではない。ラテン系、アジア系がいるのではない。ただアメリカ国民がいるのみだ」という言葉や、就任演説の「貧し い国々の人びとには、我々が一緒に汗を流そう」と、対立や争いの構図から融和、団結の姿勢に転換しようとの思いも伝わってきます。

こうした力強さと寛容さを兼ね備えたニューリーダーの登場は、アメリカのみならず、世界の人びとも大いに期待しているところでしょう。

しかし、その変革の中身です。「人類の発展と繁栄」という枠組みの中での変革であれば、やがてまた崩壊することでしょう。発展、繁栄がなくても「今ある ことの不思議、かけがえのなさ」に気づき、目覚めることによって、生きることの喜びと、すべての存在と調和していく道が開かれるように思うのです。「少欲 知足」「持ちつ持たれつ」の仏教が、それを教えてくれています。(住)

2009.1月号

成長もあれば必ず衰えもある…―― 不況で知るセイフティネットの基本


米国の金融危機に端を発して、世界不況が深刻化しています。テレビでは、解雇された非正規雇用労働者の「お金も入らず、住むところからも追い出されて、年が越せない!」と悲痛な声を上げるすがたが映し出されていました。

それにしても、人の世がいかにもろいか、思い知らされます。つい半年前は、生産台数世界一を達成したトヨタが、みるみる下降に転じ、年間二兆円の利益を上げていた企業が一気に赤字転落するのですから…。

自動車業界だけでなく、家電メーカーから損保会社に至るまで、あらゆる業種で経営危機が叫ばれています。そこで大企業が採るお決まりの策は、弱いところから切るということです。自ら生き残るための唯一の手段だと考えているようです。

しかし、成長することしか考えていない生き方にこそ、重大な欠陥があるのではないかと思います。人間でいえば生老病死があるように、誕生し成長して、ピークを迎えれば衰えて滅していくのが自然の摂理であり、諸行無常というものです。

にもかかわらず、ひたすら成長、発展、拡大をめざし、また競争に勝ち抜くために乗っ取り、統合し、あるいは合理化という弱者切りを繰り返しているのが現実 でしょう。そこには探り合いと不信感しか生まれません。基本的に信頼がなければ、すべて崩壊していくのはわかりそうなのに、です。

衰えてこそ知る真実というものがあります。成長がなくても、衰えても、一人一人が信頼に基づいた関係を構築していくことによって、社会が、人生が実りあるものになるのだと思います。今、社会のセイフティネットの必要性がいわれますが、基本はまさにここにあると思います。(住)

2008年の『正福寺だより』です

2008.12月号


反政府の民主市民連合(PAD)がバンコクの二つの国際空港を占拠して一週間、タイのソムチャイ政権が崩壊しました。憲法裁判所が与党「国民の力」党など三党に解党命令を下したからです。

アジア屈指のハブ空港・スワンナプーム国際空港が閉鎖され、観光や仕事で訪れていた多くの日本人が足止めを食らって大変な目に遭った人もいたようです が、内乱状態にならなかったことは、仏教国タイならではのことでしょう。警察や軍が、たとえ政府の命令であっても占拠市民を強硬排除しなかったことは、法 や制度より、人のいのちを尊重する価値観があったからでしょうし、何より大きいのは、国民の尊崇を集めるプミポン国王が望まれなかったからでしょう。タイ の国王は仏教の守護者であり、仏教の第一の実践者なのです。

とはいうものの、タイの将来は前途多難です。二年前に失脚したタクシン元首相中心の親タクシン派と、民主市民連合中心の反タクシン派が勢力の上でも拮抗 しているからです。端的にいえば、経済拡大路線か、タイ式生活重視型かの争いです。また欧米型資本主義か、地域にあった経済かになるでしょう。格差拡大と 不正が伴った前者型への不満は高まりつつあるのは事実でしょう。プミポン国王も「足るを知る経済を…」と語られています。

タイのみでなくインド、中国、ミャンマーなどのアジアの国々で、政治経済問題が表面化していますが、実は、その中身は欧米の思想文化とアジアの思想文化のせめぎ合いでもあります。混迷するアジアが、また広く世界が、欧米型からいかに脱却できるか、今、問われています。(住)

2008.11月号

株価暴落で人間観の見直しを


米国の大手金融機関が相次いで破綻したのをキッカケに、世界的規模で株価が暴落し、経済の停滞感が顕著になっています。10月下旬には、日本の株式市場もバブル後の最安値を更新し、円高もあって、輸出産業をはじめ多くの企業が苦境に追い込まれているようです。

一連のニュースに接して改めて思うのは、紙切れ一枚の株や通貨が世の中を動かし、人びとの生活を全般にわたって左右しているのだということです。株価の 上下によって1日で数千億円の資産が失われたり、逆に儲かったりするのですから、ものの値打ちに対する感覚はマヒしてしまいます。
株や通貨はあくまで値打ちを表す仮のもので、実体、実質があるわけではありません。にもかかわらず、その仮のものの方が重んじられているのです。

しかし、いくら仮のものばかり集めても、実質が伴わなければ、暖をとる燃料にもなりません。そんなある意味、からっぽのもので一喜一憂しているのですから、われわれの生活が手応えのない、生きている実感もわかないものになってしまうのも無理はありません。

そして一番の問題は、この仮のものである株や通貨が人間の損得によって値打ちが決まるという点です。

損得や欲望に基づいて構築された生きがいや社会が、お互いに心を通い合わせ、安心してそれぞれの人生を歩ませることなどできません。今回の金融危機は、 産業革命以来、突っ走ってきた生き方に転換を求めている気がします。根本的に生命観、人間観を問い直す必要があるようです。(住)

2008.10月号

相次ぐ食の汚染に不信広がる!


先ごろ、三笠フーズをはじめとする複数の米販売会社が、汚染された事故米を食用に転売していた事実が明らかになったのに続いて、中国で作られた粉ミルクに有毒物質のメラミンが混入され、多くの乳児が腎臓結石になって死者まで出ていることがわかりました。

両者とも、その被害と影響は多岐の製品に及び、全国または海外にまで広がっています。 それにしても、ここ数年の間に、どれだけの食品の偽装、汚染事象が明るみになったことでしょうか? もはや、これは一部の悪者が行った例外と片付けるこ とはできません。根本的に、今の社会の在り方に重大な欠陥があると思います。

食べ物といえば、日本人は、毎食、合掌して「いただきます」と言って、食べていました。 そこには、食べ物を「いのちの恵み」と見て、感謝する心があったといえましょう。皆が自覚していたとは限りませんが、少なくとも、食べ物とはそういうもの だという認識はあったと思います。

ところが、今の社会では、自分の口に入る食べ物が、誰がどこでどういう風に作って、どんな思いで運ばれたのかは全く見えません。つまり、食べ物に込めら れた人の想いが伝わってこないのです。食べ物そのものに「大いなる恵み」を感じ、その大切なものを私のために作り、届けてくださった方がたの心の温もりが 伝わらないのです。

それよりも、いかに効率的に大量に、そしてすばやく運んで、自分たちの利益を得るか?それが最優先されているような社会なのです。競争に勝ち抜かなければ、会社はつぶれる、ということもあるのでしょう。

しかし、人と人との「信」を見失った社会に、明るい未来はないということも言えるのではないでしょうか。(住)

2008.9月号

選手の生きざまが私の人生を投影!――中国の威信誇示したオリンピック


北京オリンピックが終了しました。チベット問題や四川省大地震などで、開催の有無まで問われた大会でした が、蓋を開ければ、中国の威信を誇示するかのように、盛大なオリンピックとなりました。日本の報道も、まるで開催を疑問視する声など初めからなかったかの ような讃えようです。

それはさておき、私がおもしろいと思ったのは、日本人選手たちの多種多様な結果とその反応です。

まず、期待通りに結果を出した人たちがいました。競泳の北島康介選手や、女子レスリングの吉田沙保里、伊調馨両選手といったところでしょうか。

逆に、期待されながら、結果を出せなかった人たちがいます。柔道の鈴木桂治選手は選手団の主将でもあったのですが、一度も勝てずに惨敗。

インタビューでは「自分が弱かったから…」それしか言えないでしょう。マラソンの野口みずき選手は開催前に、同じく土佐礼子選手はレース半ばで、棄権しました。また、野球もメダルを取れませんでした。

期待以上に活躍した人たちもいました。女子ソフトボールの面々に、フェンシングの太田選手、400mリレーの朝原選手らも殊勲ものです。

マスコミは、金メダルを取った人たちを讃え、期待はずれの人たちを批判的な目で見ますが、私には、鈴木選手や土佐選手の歩みや体験も、非常に大切だと思 いました。成果を上げた人、努力して報われなかった人、努力が足りなくて報われなかった人、さまざまな選手の生きざまがそのまま私の中にあり、私に人生を 知らしめているように思えたのでした。

「思うようにならないのが人生、その人生、結果ではなく、いかに生きるか」だと、今大会で再確認させてもらいました。(住)

2008.8月号

最近の贈りものは?


「日頃、お世話になっている方に、感謝の気持ちをこめて贈ります」-- お中元の贈りもののCMで、こんなうたい文句があったように記憶しているのですが、贈りものが時として利権を得るための手段、すなわち贈収賄とみなされた りするので、うかつにものが贈れない場合もありそうです。

だいたい人にものを頼むときとか、思わぬお世話になったり、面倒をかけたりしたときには、ちょっとしたものでも贈るのが通例ですが、それは、ふつう感謝 の気持ちの表れだと思うのです。たとえば就職のお願いをするとか、お見合いの相手を紹介してもらうとか、忘れ物を一生懸命探して見つけてもらったり、知り たい情報を提供してもらったりすると、素直にうれしいと思い、有り難いと感謝するのがごく自然な人間の心ではないでしょうか。ものを道具に人を動かすので はなくて、ものを通して人と人が心を通い合わせる、いわば潤滑油のようなはたらきが、贈答品にはありました。

贈りものは心の通い合いが本義、という基本の押えがだんだんとなくなりつつあるのが現代といえましょう。贈りもののやり取りの裏で、何かの見返りを期待 したり、贈られた方も何かの意図があると勘ぐったり、とにかく「もの」に翻弄され、縛られてしまうのかもしれません。それは言いかえれば、人間同士が信頼 の上に成り立っているのではなく、自分のために利用するのが(他)人と認識していることに他なりません。今の社会は、どうも人間を信用していないようで す。

お中元は、もともと7月15日(旧暦)のこと、この日は盂蘭盆会です。見返りを期待しないで、仏法僧に供養するのがお盆の本義です。(住)

2008.7月号

足りなくないのにガソリンまた値上げ―― 人間ひとりが使う総エネルギーの抑制を!


7月からガソリンがまた値上がりします。ガソリンが上がると、バスなどの運賃や、バス、トラックなど自動車そのものの値段、また家庭で使う電気、ガス代、さらにバターや卵といった食料品までも、連鎖反応で次々と値上げすることになります。

また、イカ漁をはじめとした漁船は、燃料代の高騰で採算が合わず、休漁せざるをえなくなり、光熱のためにガソリンを使って果物や野菜を作っている農家も、廃業に追い込まれかねません。

こうして見ると、改めて、人びとの生活がガソリンや、その元の石油に依存しているかがわかってきます。

そして、温暖化危機に伴って二酸化炭素の排出をいかに少なくするか、サミットでも主要テーマのはずですが、にもかかわらず、二酸化炭素の増加につながる石油の消費が、今も増え続けているというではありませんか。

石油価格の高騰は、多分に投機目的が原因だと思われますが、そうした中で、サウジやクウェートなど産油国が増産に踏み切ったといわれます。需要が足りな いのではないのに石油が増産され、しかも消費が増え続けている。これでは、真剣に温暖化防止に取り組んでいるとはいえないでしょう。
化石燃料からの脱却をはかるため太陽光発電、風力発電、それにバイオ燃料と開発研究がなされているのですが、長期的に見れば生物そのものの破壊につながる原子力発電所の増設も進んでいるようです。

もういい加減、人間一人が使う総エネルギーの抑制を考えるべきではないでしょうか。(住)

2008.6月号

土の道を行く楽しみ!


先月号に続き、土のお話です。

お寺の前の道は、私が小さい頃は舗装されていませんでした。その土の道を、私は幼稚園へ、小学校へと三十分以上かけて通ったのです。行きは遅れないよう に、さっさと歩きましたが、帰りは、時間に制限があるわけではありませんので、道すがら、楽しみとドキドキがいっぱいでした。

春先には、レンゲソウが一面に咲いた道沿いの田圃で転げ回り、石垣のすき間にヘビを見つけてドキッとしたり(友達がヘビのしっぽを掴んで振り回したのに は驚きました!)、溝にいるドジョウやザリガニを掴んだり。秋には、乱舞する赤トンボを追いかけたり、道端の草むらで鳴く虫を見つけようとして犬の糞を踏 んだり、池ではカイツムリに石を投げ(けっして届きません!)、ビックリしたカイツムリがあわてて水中に隠れるのをおもしろがったりしました。

雨の日にもまた楽しみがあります。土の道では、すぐに水たまりができるからです。その水たまりを飛び越えることができるかどうか、あちこちにできた大小 の水たまりで自分の跳躍力をためすことができたのです。さらに、即席の水たまりにもかかわらず、どこから来たのか、アメンボが浮かんでいたこともありま す。傘の先で突いて、すばやく逃げるアメンボのすばしっこさに感心したり、とにかくいろんな生き物との触れ合いがあったように思います。

今は、脇道までがことごとく舗装され、生き物は消え、道は単なる通過点でしかなくなりました。人生の歩みそのものが通過点になったとき、人は何を楽しみにするというのでしょうか?(住)

2008.5月号

見えねども大切な土のはたらき


ある穏やかに晴れた日、それまで幹と枝しかなかった境内のイチョウに、突然、小さな葉っぱが芽生え、見る見るうちに青々と茂り始めました。今もその量を増やし続けています。隣の菩提樹も同様です。何もなかった枝の先が、今はみずみずしい新緑の葉に覆われているのです。

金子みすゞの詩を思い起こしました。
「ちってすがれたたんぽぽの、かわらのすきに、だぁまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根はめにみえぬ。 見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。」

この詩は「星とたんぽぽ」ですが、木々の葉もそうだったのですね。ひとつも見えなかったのに、何もないと思われていたところから、グングンといのちの息吹を感じさせる若葉が生い茂ってきたのです。

心が洗われました。ホッとして、気持ちよく深呼吸できました。

考えてみると、新緑の葉が生まれるには、目に見えないところで、目に見えない数多くのはたらきがあったからだといえそうです。日光、空気、温度などですが、とりわけ、土のはたらきに私は注目したいと思います。

たんぽぽもそうですが、木々は土にしっかりと根づいてこそ、生きていけるというものです。また、土から水と養分を得てこそ、葉を茂らせ、成長するというものです。

土台のない人生はか弱いものになります。「浄土」も土の字が使われています。土を隠し、コンクリートに囲まれた人間の生活がもろくなっているのも、むべなるかなと、変に納得した次第です。土の生活の復活を願うばかりです。(住)

2008.4月号

チベット弾圧の真の問題点は?


3月中旬、チベットの聖都・ラサで起きたデモに対する公安当局の武力弾圧は、国際社会をも巻き込んだ反発、抗議行動に発展しています。

中国政府は、このまま武力で解決しようとすれば、オリンピックの成否に関わると認識しつつも、「チベット独立」は阻止せねばならないと判断しているようで、強硬姿勢を変えていません。

現政権にすれば、強力に経済発展を押し進めて、国力と国民の生活水準を高め、多方面でくすぶる不満をそらす一方、ひとつの国家として世界に影響力を行使していくことが、自らの政権の安定につながると踏んでいることでしょう。

いわば、その壮大な計画に立ちはだかるのが、チベットやウイグルの周辺少数民族です。彼らは、漢文化とは異なる独特の文化と生活を持ち、しかも、けっし て無視できない勢力を保っているのです。特にチベット族は、ダライ・ラマ14世を宗教的ばかりでなく、政治的にも最高指導者とみなしていますので、中国政 権側は、邪魔でしかたがないわけです。

ともあれ、チベット族の不満は、経済発展の波がチベット社会にも押し寄せているにもかかわらず、その恩恵は漢族だけが受けていることにある、といわれています。

しかし、真の問題は、経済発展の裏側で、チベット人がもっとも尊び、受け継いできた宗教や文化が消されようとしていることでしょう。もっといえば、人類 にとってもっとも大切な精神的支柱がないがしろにされつつあることの危機感、そのことの方がよほど深刻だといわねばなりません。合掌されるダライ・ラマ 14世の思いも、きっとそこにあると思います。(住)

2008.3月号

昔ばなしに込められた現代への警鐘!?


お寺では、毎月「ビデオ法座」なるものを催していますが、この二、三回、アニメの昔話を鑑賞しました。

「うらしまたろう」「かぐやひめ」といった有名なものばかりですが、それらのいくつかを観ているうちに、 子どもの頃にはわからなかった、奥深い人生の教訓みたいなものが、仏教の教えとともに込められているこ とに気づいたのです。

たとえば、「花咲じいさん」では、犬や木々といった生きものを、まるで自分と同じ仲間のように見て、 慈しむおじいさんと、そうした生きものを自分の欲を実現するための単なる道具として、利用することしか 考えない欲ばりじいさんが対比されます。そして、仲間と見て、心通わせれば、たとえどんなにつらいこと も、やがて潤いが生まれ、心が満たされていくものであり、逆に自分本位の欲ばかり追求していると、ほん の一瞬、その欲が実現できても、それはすぐに虚しさに変わり、いつまで経っても心は満たされず荒んだ人 生になるというものです。

また、「おむすびころりん」でも、同じことが言え、穴に落ちたおむすびを得て、ねずみたちが喜ぶのを 自分のことのようにうれしく思うおじいさんと、ねずみから「宝物」を強引に奪おうとした欲ばりじいさん の対比です。

これらは、目先の物に心を奪われ、その奥にある大切なものを見失うことへの警鐘でしょう。金銭欲、権 力欲、名誉欲、征服欲?がまん延する現代、すべてのいのちは互いに支え合い一つにつながっているという 仏教の味わいが何にも増して大切であることを改めて知らされました。

「いつまでも幸せに暮らしたとさ?」とは、単なる一人の人生のことではなかったのですね。(住)

2008.2月号

朝青龍復帰で相撲人気高まる!


大相撲初場所は、朝青龍が三場所ぶりに復帰し、同じ横綱の白鵬と相星決戦するほどの好成績を上げ、大いに盛り上がりました。

私も久しぶりに数日、テレビ観戦をしたのですが、この最後の一番は例外としても、総じて、土俵に上がった力士同士の「仕切り」がチグハグなのが気になりました。

相撲の「仕切り」は、お互いの呼吸を合わせるのが主な目的だと思うのですが、それよりも「自分がいかに有利に立てるか」が優先し、相手に合わせるどころ か、無理に「合わせない」ように仕切っている力士もいたように感じました。相手と呼吸を合わせていくうちに、闘志も湧いてきて、お互いの力が発揮されると いうものです。それが相撲の醍醐味でしょう。

ところが、下位の力士の取組ほど、「引き落とし」や「はたき込み」など、真正面から力を出すのではなく、すかしたり、かわしたりと姑息な手段で勝負がつ いてしまう場合が多いようでした。これでは観ている方はつまらないものです。安易に「勝てばいい」という意識がまん延しているようです。

今の世相は、何でも勝った者勝ちの傾向にあるようです。大相撲しかり、政権しかり、マスコミ、芸能界しかり。「それ以外はダメだ」といわんばかりの極端さ、格差の隔たりです。

「阿吽の呼吸」という言葉があります。初めと終わり、開口音と閉口音、呼(は)くと吸う、というもっとも対照的な両者が、見事に息が合い、通じ合っている状態のことです。私たちも「仕切り」を大切にし、阿吽の呼吸を取り戻すような生き方をするときでしょう。(住)

2008.1月号

信を尊ぶ時代へ


平成19年を漢字一文字で表すと「偽」だったそうです。食品偽装をはじめとして、政治家や官僚、また民間企業や、日常生活全般にいたるまで、嘘や誤魔化しで覆われていたのが、暴露された年ということでしょうか。

「偽」という漢字を『字通』という辞典で調べると、旁の「為」というのは「動く、変化する」意味で、「為は化にも通じる」そうです。ということは、人が 以前と変わったことを言ったり、言動を誤魔化し(化け)たりするのを「偽」といったようです。「うそ、いつわり、あざむく、うごく、かわる‥」というのが その意味です。

「偽」が世にはばかると、虚しさが漂い、生きる元気もなくなってきます。何とかこの空気を打開していきたいものですね。

そこで、「偽」の反対語は何かと思ったら、「真偽」という言葉もあるので「真」と思われがちですが、よりぴったりな漢字は「信」だということがわかりました。

「信」は「人 +言」なのですが、この「言」は、同じく『字通』によると「神に誓う語」だそうです。神に誓うのですから、空虚な言葉であったり、場所によって言うことが 変わったりしてはいけません。誠実でなければならないわけです。つまり、人が神に誓う「言」は「誠」なのです。そこから「信」は「まこと、あかし、あきら か、うやまう、まかせる」といった意味になります。

親鸞聖人はこの「信」を「真なり、実なり、誠なり、満なり‥」と釈され、もっとも大切にされました。阿弥陀如来という「まこと」を、信を通して受け取り、敬われたのです。平成20年が「信」の年になるようにと願っています。(住)

2007年の『正福寺だより』です

2007.12月号

キレる大人たち


どうも最近、キレる大人たちが増えているようです。先月20日には、横浜のJR列車内で、ドア付近に座っていた 少女を蹴飛ばし、ケガをさせた三十五歳のサラリーマンが逮捕されました。

「いくら注意しても言うことをきかず、腹が立って?」暴行に及んだそうです。人の迷惑とか、視線というものに 何ら頓着することなく、ひたすら自分たちだけの世界に浸っている連中を見ると、「公共の場を何と思っているのか!」 と、怒鳴りたくなる人も多いのではないでしょうか。

民主党の小沢代表も、「プッツン」とキレた一人です。福田首相との話し合いで「自民党との大連合」構想を党に持ち 帰ったのですが、仲間の役員の猛反対に合い、「代表を辞める」と、匙を投げだしたのでした。同じ政治家で、そのまま 辞めてしまったのは、前首相の阿倍さんです。

私にもあります。コピー機のトナーを電話注文して、できるだけ早くほしい気持ちが「大至急、頼みます!」と言った ところ、受話器の向こうから「順番ですから、そんなエコひいきはできません!」と女性の声。思わず「もういいわ!」 とガチャンしてしまいました。

キレるのは、何かの化学物質が欠如しているのが原因!という話ですが、そんな分析よりも、「本来、こうあるべきだ!」 とあまり思い込まないことです。私の場合、いつもそれがあるからキレているのです。人と人の関係を損得で見たり、 システムの一部としてモノ化して見る傾向がある世の中も問題ですが、個人としては、思い込むほどストレスは溜まり ます。ストレスは溜めない。溜まったら、その原因となっている「こだわり」を捨てる、諦めるというのが、大切なようです。親鸞聖人も「(次々に起こる)念 は法海に流す」といわれていますから。(住)

2007.11月号

食品偽装相次ぎ発覚!


「赤福」餅のピンク色の箱が、店頭から消えました。消費期限の改ざんや回収品の再利用で、販売停止に追い込まれたからです。赤福に代わって、包み紙もそっくりな「御福」餅がよく売れたそうですが、その御福餅も表示の誤りや期限の不正が判明しました。

しかし、食品偽装はこれだけに止まりません。雪印食品、不二家、それに複数の業者が外国産牛肉や鶏肉を国産とごまかしたり、最近も、北海道の「白い恋 人」、高級料亭「吉兆」グループの偽装・改ざん、宮崎地鶏や比内地鶏、名古屋コーチンの偽物など、枚挙にいとまがありません。

こうなると、ちまたに出回るほとんどの食品が偽装されているのではないかと思ってしまいます。

激しい競争、利益第一主義、人気に驕ったとか、原因もいろいろあることでしょう。でも、ただ規制を厳しくするだけでは問題は解決しないように思います。

「いかにごまかしを発覚させないようにするか」に、腐心するところもないとは限りません。作り手や販売する側と、それを食する消費者との間の信頼の絆が希薄だからです。つまりお互いの顔が見えないのです。

なによりも、食する人の喜ぶ顔が見えることが大事だと思うのです。それには「大量に安く…」から、「数に限りがあっても、手作りのようなぬくもりのある食 べ物を…」といった価値観の大転換が必要でしょう。百年かかっても、その方向をめざすことです。食品に自然に手が合わされ、いのちの恵みをいただいている ことが実感できる日が来るようにと願っています。(住)

2007.10月号

ミャンマーの悲劇


人間とは恐ろしい生き物である――ミャンマー国民を武力で制圧した軍幹部の心を慮ったとき、 改めてそう思わずにはおれませんでした。

国際世論の声に耳を傾けず、デモを行う数万の僧侶、市民らに銃を向け、またデモで中心的役 割を果たす僧侶を封じ込めるため、僧院を急襲して破壊、連行する一方、抵抗する僧侶を殺戮する行為に出たのでした。その上、情報を伝えるジャーナリストを 故意に殺害したとしか思えない 事態も生まれました。

ミャンマーでは、市民が使うガソリンの量は限られ、毎月届け出なければなりません。とても それだけでは生活できず、闇でガソリンを買うのが一般的でした。それが今度、大幅な燃料費値 上げとなり、公共交通機関の運賃も数倍に上がったといいます。切り詰め切り詰め暮らしてきた 市民の生活も限界に達したことでしょう。ぜいたくを要求しているのではなく、ただ生きていけ る生活がしたいとの願いがデモに込められていたのです。

そうした庶民の叫びを抹殺したといえましょう。権力を握った者たちは、贅沢三昧の生活をし、 それ以外の国民は、生きるのがやっとという生活――これこそ格差の極みかもしれません。そういう旨味を占めた権力者には、もはや国民は「道具」同然なので しょうか。心の痛み、辛さに共感することはできなくなってしまうのでしょうか。

国民とともにあるのではなく、自分たちのためだけに国家の権益を利用し、また国民を道具にすることの恐ろしさを、一日も早く気づいてほしいものです。(住)

2007.9月号

自分が受けている恩恵を感じる力が鈍い?!―― 医師に暴行ふるう患者が増えている!


緊急性のない患者に入院を延ばすよう告げたら殴られ、説明がわかりにくいと患者が聴診器で医師の首を絞めたり、亡くなった患者の家族からは、看護師のせいだといわれ、足をけられる――こういった病院の現状が、読売新聞の調査で明らかになりました。

生徒や親が教師を殴り、保育園に通わせながら保育費を払わず、大学の卒論を金で買うことまで生じる今日この頃です。医師を従者みたいに見る患者が生まれ るのも、考えてみれば不思議ではないのかもしれません。それらに共通するものは、独りよがりの価値観であり、いのちの連帯や絆の欠落といっていいでしょ う。

「自分は病気にはならない。仮になったとしても、それは自分以外の人やもののせいである」とし、「病気を治すのが病院や医者の仕事だ。治して当たり前、 治さなければ職務怠慢だ…」といったとらえ方なのでしょう。人はいくら気をつけていても病気になるときはなるものであり、死ぬときは死んでいかなければな りません。それを認められず、病気になったなら、誰かの、何かのせいにしなければ精神的に持たないのかもしれません。そんなもろい人生観の人が増えている のです。

病気になっても、それを専門知識と技術で、一緒になって治そうと思ってくださる方がいることはなんと有難いことでしょうか。医師をそういう目で見れることが大切なのではないでしょうか。もっとも、心の通わない医師がおられることも確かでしょうが…。

基本的に、自分が受けている恩恵を感じる力がにぶくなっているのが気になるところです。(住)

2007.8月号

「想定外」のできごと


参議院選挙の自民党大敗で、ある幹部は、「想定外の結果だ」と顔を曇らせました。新潟中越沖地震が直撃した柏崎刈羽原発の関係者も、記者会見で「想定外の地震でした」と述べていたのを思い出します。

想定という言葉を、辞書で調べると「ある状況や条件を仮にきめること。また、そのきめた考え」(旺文社『国語辞典』)ということだそうです。それに「外」 がついているのですから、想定外は「きめたこと、またその考えたことの範疇に入らない状況が生じた」ことになるのでしょう。

「予想外」という言葉や「信じられない!」という言葉もよく聞きますが、これら頻発して使われる言葉から、現代人の危なっかしい生き方が少し見えてくる思いがします。どうも、現代人は想定した人生しか考えていないのではないかという危惧です。

自分の思い描いた生活なり、生き方なりをするのが人生だと思っているようです。そして、その「想定内」の人生を歩むことが「人生の成功者」であり、幸せな人生だと見ているようなのです。

しかし、まず押えなければならないことは、人間の知恵、考えの及ぶ範囲はごく狭く、小さいということです。したがって「想定外」のことが起こるのが人生で あり、世の中です。原発もいくら「絶対安全」に想定しようとも、まず確実に人類を放射能汚染させていくものと覚悟しなければならないでしょう。その上で、 「想定外」のことが起こっても、自分の人生が「よかった!」と心からいえるような生き方こそが大切なのです。(住)

2007.7月号

データで人を判断する社会


私のパソコンには、膨大な量のデータが記録されています。文章は、この一面の短い文だけでも、六年分(それ以前の分は保存していないのです)のおおよそ六万字。寺報全体では二十万字ほどが記憶されています。文は寺報だけではありませんから、量はその何倍にも なります。写真も万単位の枚数になっているでしょう。自分で作ったものなのに、すべて把握することなどできません。

たった一人分でも、その行為、行動は複雑で膨大すぎて、データで把握することは難しいでしょう。それが年金問題なら、国民全体のことですから、把握は所詮無理な話です。

ところが、今の社会は、データで人を判断する傾向にあるように思えてしかたありません。肩書きや経歴だけでなく、血液型や趣味、年齢などの情報で、人を 見ていくのです。また書類さえ整っていれば、自動的に許可され、逆に不備があれば、どんなに訴えても有無をいわさず退けられてしまいます。働けるのに働か ず、ラクして生活保護費をもらう人もいれば、仕事もなく本当に保護費が必要な人がもらえなかったりすることなどが、よい例です。「書類を見て、人を見な い」世の中は、冷たすぎませんか?

パソコンが不具合になって、自分で試してもどうにもならなくなり、最後の頼みと思って業者のサポート係へ電話して、「あっ、それは私のところの問題では ありませんから、なんともいえません!」などと、いともあっさりいわれると、私という人間そのものまで否定されたような(大げさ?)気分になってしまいま す。データばかり見ていると、そんな人の気持ちが伝わらない社会になってしまいそうに思うのです。(住)

2007.6月号

黄砂と光化学スモッグ


五月の急に熱くなった日、九州地方などで光化学スモッグ注意報が出され、小学校の運動会が中止になったと いうニュースが報道されていた。光化学スモッグという言葉は、一昔前によく使われたが、現在は縁遠くなっていたように思う。それが久しぶりに聞かれたの で、一種の懐かしさ?も手伝って、印象に残った。

気象に関して、もう一つ、今年話題になっているのが黄砂である。中国北部の乾燥地帯で巻き上がった砂が西風に乗り、海を越えて日本列島までやってきたものだ。視界が数百メートル先までしか見えない日もあったかと思う。今年は頻繁にやってきているようだ。

ある研究者は、この黄砂と光化学スモッグが関連しているのではないかと類推しているという。すなわち、中国で排出された大量の有害物質が細かな黄砂に付 着して、日本にまで運ばれ、光化学スモッグを発生されているというのだ。まだ確かなデータが揃っていない状態だが、その可能性は十分考えられそうだ。

ここで、日本人の会話で聞かれそうなのは、「中国はやっぱり遅れている―、迷惑な話だ!」というような言葉だ。もちろん、中国で発生した公害は、自らの 国で改善してもらわないと困るが、言葉のニュアンスには、日本がアジアでもっとも進んだ国であり、中国や韓国はつねに下のランク、との意識が見え隠れして いるようだ。日本で公害が激しかった折に、もし、煤煙が太平洋を越えて、アメリカに達していれば、アメリカもきっと日本をそう見下したことだろう。

地球上のすべてのものは、お互いに関わり合い、支え合っているということを改めて感じる。肝心なのは、自分がナンバーワンになることより、お互いがオンリーワンだと認め、尊重し合うことだろう。(住)

2007.5月号


光速不変と仏さま 唐突な話になりますが、物理学がおもしろいということに最近気づきました。アインシュタインが、特殊相対性理論などの画期的な論文を発表して百年目の二〇〇五年以来、物理学の講演や入門書が増え、一般の人びとにもわかりやすく語られるようになったのが一因です。

何がおもしろいかといえば、今までの固定観念が「目からうろこがおちる」ように崩れていくところでしょうか。たとえば、時間と空間は別のものと思って いたのが、実は切っても切れない関係にあり、速度が増すと、時間は遅くなり、物体の長さも縮むのだそうです。仮に、ものすごく速い人工衛星ができたとし て、それに乗って宇宙のかなたに旅行すれば、今度地球に帰ってきたときには、三代も四代も後の子孫の時代になっていたという、浦島太郎のような話も起こり うるわけです。また、目に見える物(質量)と、目に見えないエネルギーというものは、別のように思いがちですが、これも光の速さの二乗をかけると等しくな るというのです。ある学者の試算によると、1gの質量で、百万人分のお風呂が沸かせるエネルギーに換わるといいます。

どうも「光」がキーポイントのようで、不思議なのは、その光の速さ(一秒間に三十万キロ)は観測者がどのように動いても変わらない(光速不変の原理) ということです。つまり、光に向って猛スピードで近づいても、また反対に逃げても、光はまったく同じスピードで追いつくのです。それはちょうど阿弥陀さま の救いが、逃げる者をももらさず平等に救うということ、その阿弥陀さまの救いが光に喩えられることなど、仏教の教えにも通じることで、なお一層興味をそそ られているところです。(住)

2007.4月号

経済は成長し続けなければならないのか?


今、全国的に、知事や議員の選挙戦が展開されているが、その主要テーマの一つが地域の活性化であり、そのためには「経済成長が必要」というのがほぼ共通した認識のようだ。

また、最近の話題である地球温暖化危機についても、いかに二酸化炭素を出さず、クリーンなエネルギーに換えていくかという議論はあるが、その前提に、「経済成長を続けながら…」という条件が付いている。

しかし、この「経済成長」は、私たち人類にとって、なくてはならないものなのだろうか?――つまり、人間が幸せな生活を送ろうとするとき、現代のような「経済成長」がなければ、それが実現しないものなのかどうか、という素朴な疑問である。

人びとが欲する物やサービスを大量に生産し、大量に消費する、そして徹底した効率化をはかって競争に勝ち抜いていく――それが「経済成長」と表裏一体で あるなら、やはり都市に人口は集中するだろうし、ビルの高層化、大規模事業の展開、高速道や車といった流通機能の拡充、はたまた土地の有効利用という名目 の自然破壊は当然のごとく進むことだろう。それが人間にとって歩むべき道かどうか、根本的に考え直すときがきているように思うのだ。

たまたまテレビの旅番組で、南太平洋の西サモアを紹介していた。サンゴ礁の海と緑豊かな島の住民は、魚や木々の葉などを自然の恵みとして、生活に必要な 分だけをとって暮らしていた。大型漁船で、大きな網を使って大量に魚を獲る「経済的利潤追求型」の近代的漁法とは違って、私には微笑ましく感じられた。(住)

2007.3月号

かぐや姫ばかり登場?!


学校や幼稚園の先生が今、大変だという。保護者や子どもたちの自己勝手な要望や行動に翻弄されているのだそうだ。中には、過労で倒れたり、精神的重圧から学校に行けなくなっている先生も多いという。

そんな中、ある幼稚園の学芸会で「竹取物語」の劇を試みたところ、主役のかぐや姫になりたい子が続出して、結局、何人もの「かぐや姫」が登場することに なったというレポートがテレビで流されていた。そのことを、親にインタビューしたところ「そういうのもあっていいんじゃないですか?」と平然と答えていた のだ。

今の世も、「頑張って、競争に勝って、山のてっぺんに昇ろう」式の人生観が相変わらず根強いことをうかがわせるが、それがますます社会性をなくし、自我を増長させていっているように思われる。

しかし、ピラミッドの頂点に立つことが人生の成功であり、それ以外は敗北と見なすような人生観はどう見てもおかしい。頂点の主役以外は「その主役を引き 立たせるために従属する存在」と見るのではなく、また「頂点に立つ」人だけが「主役」なのではなく、基礎になる石も、同じように「主役」なのだ。つまり、 役割・分担は違っていても、それぞれが関わりあって、一つひとつの存在、現象が成り立っているのだ。そういう誰一人として軽く見ることのない視線が、個々 の人生に潤いと安らぎをもたらせてくれるものなのだ。

逆にいえば、そういう平等に慈しむ目が今の社会に欠けているからこそ、親たちは「自分の子に注目して!」と、「かぐや姫」役にこだわるのかもしれない。そう思うとなんとも哀れな気持ちが込み上げてきた。(住)

2007.2月号

ミャンマーの子どもたち


お正月三ヶ日直後の4日から9日にかけて、ミャンマーに行ってきました。向こうの仏教者に会うのが主な目的だったのですが、ほかに、ヤンゴン郊外の貧困地域のお寺が運営する私設小学校にも、立ち寄ることができました。

貧しい家庭の子どもたちや、身寄りのない子どもたち(その多くは出家して小僧さんになっています)ばかりなので、授業料は無料、学用品も寄付されたものを使っています。

私たちの到着が遅れたのですが、授業時間がすんでもずっと私たちが来るのを待っていてくれたそうです。子どもたちは年々増え続け、現在は約一千人。教室が足りず、屋根と柱だけの建物もあったりします。

教室に入ると、子どもたち全員が立ち上がり、合掌の姿勢であいさつしてくれました。「こんにちは、尊敬するお坊さま!ようこそおいでくださいました。座ってもよろしいでしょうか?」――そんな意味の言葉を元気よく語ってくれました。

どの子も、澄んだ目でしっかりと私を見ながらあいさつしてくれたことに、なぜかとても感激しました。日本のように、教室内をウロチョロする子や、学用品 を粗末に扱う子や、おしゃべりするような子は一人もいません。純朴そのもの。子どもらしい心の動きが手に取るように伝わってきます。

だからでしょうか、どの子もかけがえのないいのちをいただいていることを実感するとともに、『この子たちに幸あれ』と願わずにはおれませんでした。(住)

2007.1月号

欲と要領で成功する世の中だけれど――お金で買えない大切なものがある!


平成19年という新しい年を迎えて、さて、これから人間社会はどうなっていくのだろうかと考える。
世界はアメリカ主導の経済が地球を席捲し、強欲と要領のよさを発揮した者が富む、という格差社会が進んでいる。そこには、同時に利害の対立から戦争・紛争が絶えず、自然破壊もまるで他人事のようにしか受け取れない人々も少なくない。

日本の社会も、アメリカ追従と言おうか、現実的にはそれが一番無難なのだろうが、安倍政権になっても、基本的に小泉政権の政策を踏襲し、「国民」一人ひ とりに寄り添う政治というよりは、総体としての「国家」の力を回復することに主眼を置いているようだ。それには増税や福祉を削るという痛みが伴うわけだ が、そのシワ寄せは大部分、弱者が蒙ることになる。

概して、人と人との暖かい心の交流は、ますます縁遠くなっていく感が強い。松坂投手が球団と個人を合わせて百二十億円を稼いだとか、藤原紀香への婚約指 輪が二千四百万円だったとか、人や物の評価をお金でしか換算できない世の中に、一人ひとりの生きている値打ちや、その生の息遣いはなかなか届かないのでは ないか。

お金では買えない、そしていくら我欲を出しても手に入れることのできないものがあり、それこそ人類にとってもっとも大切なものであるということを早く気づいてほしいと、仏さまは願っておられることだろう。(住)

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2006年の『正福寺だより』です

2006.12月号

郵政民営化反対議員復党


昨年の衆院選挙で、郵政民営化に反対した11人の議員が、このほど自民党に復党することが決まったが、これに対してさまざまな批判の声が上がっている。

私も第一印象としては、1.「政治家の信念は当てにはならない」 2.「政治家の本音は選挙に勝つことと、お金が何よりも大事だと思っている」 3.「国民の目よりも、自民党の目の方が大切と思っている」――ことなどが頭に浮かんだ。

自民党が、先の選挙で離党した議員を(落選組も含めて)急いで復党させようとするのは、接線が予想される来年の参院選挙に勝つためというのが最大の理由 だろうし、現職議員11人が復党すれば、約2億5000万の助成金が増額され、その期限が今年中というのもそれを急ぐ理由になっているのは否めない。

そうした政党側の思惑に、個々の議員がいかに無力かもわかった。「復党させてやる」という自民党のやり方に、「いのちの恩人です!」といって感激した議 員や、「もともと郵政民営化は反対ではなかった」と、いともあっさり方針転換してしまうベテラン議員までいて、ずっこけてしまうシーンが続出なのだ。

それを見るにつけ、当世の人心の乱れを思うにつけ、要は、行き当たりばったりの人生であり、おのれ自身のそのときの都合と、欲と、刹那せつなの楽しみを追うだけの人生でしかない人がほとんどなんだと、ほぼ確信できるのだ。

人としていかにあるべきか、自分の短い一生をどう意義付けるか、といった視点が欠落していると思うのだ。生涯を通してゆるぎのない価値観のもとに自分の見つめていく、それが宗教なのだが、そうした意味の宗教がまさに今見失われている。(住)

2006.11月号

遺伝子だけで親が決まるのか?――代理母という言葉に見る人々の誤解


『99.99%私たちの子なのに、どうして受理してくれないの?』

これは、タレントの向井亜紀さんが「代理母」によって生まれて子どもの出生届を品川区役所が拒否したことについて、語った言葉だ。

この捉え方は、向井さん個人というより、今の多くの人たちの考え方だと推量しつつ、でも、はたしてそうなのか?と思わずにはおれなかった。つまり、それ ぞれの遺伝子を持つ受精卵から成長していった人間は、その成長過程がどのようなものであれ、元の遺伝子を提供したものがイコール親なのか、という疑問だ。

そのような発想は多分にいのちをものとして捉えているように思えるのだ。そしていのちを操作することができる時代になって、皮肉にもいのちの営みの本質が見えなくなってきているとも思えてくる。 第一、「代理母」という発想は、いのちを正面から見つめた場合、出てこない言葉だ。受精卵という一つの細胞は、幾度かの細胞分裂を繰り返して、数十兆と いう細胞を持つ人間になっていく。そのすべての過程が、子宮を持つ女性の体内で行われるのだ。女性の体細胞を通して、人の子となるようにあらゆる営みが繰 り返され、育まれていくのだ。文字通り、子宮を持つ女性と細胞分裂を繰り返す胎児との見事な連携、いのちの共有があったればこその成長である。けっして、 仮の母親でも、母親の代理でもない。仕組みだけでなく、むしろ精神面において親と子が一体となるほどの連携、心の通い合いがなくてはならないものであろ う。「胎教が大切」といわれるのも、そのためだ。10か月もの間、正真正銘の親である以外の何ものでもないのである。

人間の欲・都合で捉えてはいけない領域のあることを、そしてそれを、敬意を持って受け入れていくことの大切さを思う今日この頃である。(住)

2006.10月号

ローマ法王の発言にイスラム教徒が反発――戦いの発想を超越するのが仏の教え


ローマ法王ベネディクト16世が、母国ドイツで行った講義での発言が、イスラム教徒の反発を生じさせたことで、後日、遺憾の意を表明するとともに、イスラム諸国の大使らを公邸に招いたりして、対話の推進を改めて強調した。

問題になったのは、中世のビザンティン皇帝マヌエル2世が述べたものの引用で「ムハンマド(マホメット)が新しくもたらしたもの…そこに悪と非人間性し か見出すことができません。例えば、ムハンマドが説いた信仰を剣によって広めよと命じたことです」(要旨)という箇所。確かに、この部分だけ抽出すると強 烈なイスラム批判に聞こえるが、真意は「宗教を暴力の動機にすることに対する徹底的拒絶」にあったようだ。

しかしながら、このニュースが世界中をかけめぐり、イスラム教徒がどう動くか、緊張の面持ちでその推移を注視したのも事実だろう。そこに、今、世界の人 びとの暮らしのあらゆる面で、キリスト教対イスラム教の「戦い」が展開されているように感じるからである。西欧社会とイスラム社会の「文明の衝突」とい い、「テロとの戦い」「アメリカ帝国主義への聖戦」といい、それぞれの宗教そのものというよりも、それを信じる人びとの発想に、どうしても「邪悪なものを 神のみ名のもとに力で排除する」傾向があるのではないだろうか。

「戦いに勝つ」という発想から、「戦いの心がすべてを台無しにする」という発想にどうしてならないのか。数年前、アフガニスタンでイスラム教を奉ずるタ リバンによって破壊されたバーミヤーン石窟の大仏さまは、きっとそう思っていらっしゃるに違いない。仏さまのお心は「摂取不捨」、どんな「邪悪な存在」で あっても、けっして見捨てられないのだ。(住)

2006.9月号

かたちは戦争容認と受け取られる行為――日本至上の思想を反省したのでは?


小泉首相が8月15日、内外が注目する中、靖国神社を公式参拝した。

靖国神社の祭神は、国のために戦って没した軍人・軍属であり、その方たちを顕彰・崇敬するのがこの神社の目的だ。

つまり、日本という「国を守る」ことが至上であり、そのためには戦争も辞さないというのが基本姿勢なのだ。そして、そのために戦い没した軍人を「軍神」 として祀るのである。言ってみれば、これは自国中心主義であり、「時の権力」中心主義ともいえる。あの西郷隆盛が、西南戦争で政府に反抗したことで靖国に は祀られていないことからも、神社の性格がわかるだろう。

そういう態度で、日本国は、韓国、中国に進出していったのである。韓国よりも、中国よりも、日本が上という意識である。日本の政治が、経済が、文化が、何より優先されるかたちでそれらの国に進出した。

8月15日は、そんな「自国中心主義が間違いであった。武力は二度と放棄する。戦争は人類破滅の道を歩むことである」と、これまでの考え方を反省し、転換した日であったはずだ。だから「終戦の日」である。

それが、「敗戦の日」とする考え方が台頭し始めている。つまり、戦いに敗れた「屈辱の日」というわけだ。

小泉首相が靖国神社に参拝すること自体が、いくら内心で「二度と戦争を起こしてはならない」と誓ったところで、かたちは戦争容認であり、日本国第一主義 といわれてもしかたがないだろう。ちなみに、私たち真宗門徒は、亡き人はお浄土に生まれられ仏となり、争いの心を超えて、お互いが心通わされている存在と して仰いでいる。(住)

2006.8月号

欽ちゃん球団の解散と撤回にみる連帯責任――勝つことより大切なものを自覚するために…


お笑いグループ「極楽とんぼ」の山本という人が法を犯したというので、所属する野球クラブの代表・萩本欣一さんは、そのクラブの解散を宣言、しかし、ファンや世論の後押しで、次の日には解散を撤回することになりました。

欽ちゃんの取った態度の是非をうんぬんするのが目的ではなくて、個人と組織の関係を改めて、考えさせられたと、言いたいのです。

折りしも高校野球の夏の大会が始まります。毎年のように、選手らの不祥事で大会を辞退する高校が出ますが、そのたびに、「一生懸命まじめに取り組んでき た」他の選手が可哀そうだという声が聞かれます。また、この間も、甲子園出場経験のある兵庫県の高校の一年生野球部員が逮捕されましたが、高校側は、野球 とは無関係として、県大会に出場したのでした。

個人の反社会的行為に対して、その所属するグループ、組織の連帯責任はどうなるのか?――ということですが、最近の傾向として、組織への帰属意識が薄れ、「仲間がいてこその自分」という認識はあまり感じられなくなってきたようです。その視点から言うと、問題を起こした人物は「厄介者」であり、迷惑な人物として排除されることでしょう。

しかし、敢て言えば、勝つためだけに野球をし、スポーツをするのであれば、ドーピングも問題にはならないでしょう。北朝鮮のサッカー女子選手の暴力も許 されるかもしれません。それが許されないのは、勝つことより、もっと大事なことがあるからでしょう。それは人と人との和合ではないかと思います。そういう 連帯責任の考え方があってもよいのではないでは?(住)

2006.7月号

安全対策は周りが行うもの?


電動の門扉に挟まれて佐賀県の小学4年生が死亡した事故や、同じく電動の防火シャッターに挟まれて新潟県の小学1年生が大怪我をした事故など、先月はエレベーターの事故に加えて、安全対策にかかわる出来事が相次いだ。

エレベーターの事故は、利用者がいくら注意しても、それで防げるものでもない気がするが、電動シャッターとか門扉の場合は、注意していれば、事故に巻き込まれることはないように思うのだが、どうなのだろうか?

こんなことを思ったのは、ほかでもない。重大な事故が発生したことで、より安全面の配慮を求める風潮が高 まるのだろうが、いくら機械を安全にしようとしても、また懇切丁寧に注意書きを目立たそうとしても、100%安全にはならないものだ。それよりも大事なの は、利用者などの当事者が、いかに危険を回避する能力を身につけるか、またそういう行動をとれるかだと思うのだが…。どうも、安全対策といった場合、周り の責任ばかりが目立ち、自らがどう対処するかについては言及されていないようなのだ。

第一義に「自分のいのちは自分が守る」のが当然のように思うが、このままでは「自分のいのちは周囲が守 る。社会が守る」のが当然と思いかねない。危険だからと言って「池に柵を設ける」のが今や当たり前のなり、ナイフや包丁を子どもに持たせなくなった親や先 生も多いと聞く。これでは、「自らが危険を守る」能力を益々退化させていることにいい加減、気づいてほしいものだ。(住)

2006.5月号

犬の散歩を見て思った近代化の見直し――自然の循環無視したひずみが…


新緑の季節になりました。寒い頃には、あまり関心がなかった外の景色にも、花が咲き、木々の緑が映え出すと、不思議と目が向き、心に潤いを感じるようになってきます。

そんな自然のすばらしさを思っていると、ふと、犬の散歩のことが頭に浮かんできました。「飼い主も大変だろうが、犬も気の毒になあ」――と同情したくなったのです。

というのも、最近は、散歩にはスコップとビニール袋を持参するというのが基本スタイルになっています。散歩に「用足し」は付き物ですから、そのときに道 端に放置すると不潔で、不快な思いをさせかねないため、飼い主がきちんと便を拾い上げ、自宅のゴミと一緒に処分するというのが、今のエチケットになってい ます(ときどきお寺の前の溝に便を放置して行き去るマナー不足の人もいるのですが…)。

そうした管理の下に犬は「用を足す」のですが、アスファルトで覆われた道路なので、なんとも窮屈そうに、ためらいながら、また遠慮がちにお尻を屈めてい ます。本来なら、もっと大らかに用を足したいはずです(私ならそうです)。昔のように舗装されていない道であったら、柔らかな土や砂があります。草も生え ています。虫もきます。ちゃんと自然の循環がはたらいた中で、犬も気持ちよく用を足せるはずなのです。しかし、舗装された道路では、用を足した便は、自然 から切り離され、焼却という人工的処理をしなければならない余計物として扱われます。それが現実なのです。

人類がこれまでめざしてきた近代化とは何だったのか、そろそろ、その根本を見直すべきではないのかと、犬は訴えているように思えてきました。(住)

2006.4月号

医者になるのはお金が目的?


医学・医療技術は確かに著しく進歩しているようだが、その一方で今、「医療の心」が置き忘れられているような危惧を抱くのは私だけだろうか。

先日、正規の手続きを経ずに企業から四千五百万円の資金提供を受けたとして、京大の医学部教授が懲戒解雇された。当の教授は「個人的な借金」と主張しているようだが、大学当局は、個人的に「提供されたもの」と見ているようだ。

また、同じ京都医療センターでは、前事務部長らが横領の容疑で逮捕された。官官接待のための裏金にも使われていたと捜査当局は見ている。

もう一つ、これは事件ではないが、「地方の大学病院で医者が不足している」という調査結果が出ていた。すなわち地方大学の医学部を出ても、都会の病院な どで研修を積み、そのまま大学へは帰らず、都会の病院で勤務したり、開業したりするというのだ。これもいってみれば、お金にまつわる話だろう。

「頭がよければ医学部へ」という何とも短絡的な発想と、「医学部へ入れば、ほぼ将来は安定した高水準の生活が保証される」という虫のいい将来像を描く人 たちの多くが、その通り医者になって、金銭欲と名誉欲にしばられ、「医の心」を見失ってしまったのではないかという危惧である。

そんな中、先日、ミャンマーで医療奉仕を続けている吉岡秀人医師の講演会を催させてもらった。私財を投げ打って、貧しい患者のために全力で医療活動を続 けておられる吉岡さんの姿に「医の心」の尊さを知らされると同時に、現地の大勢の人びとの喜ぶ姿が目に浮かんだ。「吉岡さんを見習え!」―若い医師たちに そう叫びたい気持ちである。(住)

2006.3月号

予算で決まる国の将来なのに…


政府の平成18年度予算案が先日、衆院で可決され、3月中の成立が確定した。一般会計79兆6860億円をどう使うか、 それを論議するところが国会であり、予算委員会であるはずだが、ほとんどそのことは論議されず、民主党・永田議員が提示したいわゆる「送金指示メール」の 真偽をめぐる攻防に明け暮れた観があった。結局、偽物だということで、一応の決着はついたが、今度は責任問題がどうのこうのという話ばかりで、一向に本筋 の議論がなされていなかったのだ。

日本社会をどういう視点で分析し、具体的にどう機能させ、生かしていくか、その方向性を示すのが予算の配分だ。今の社会は、「勝ち組」と「負け組」に、 より鮮明に分かれてきており、従来の「中流」が崩れつつある時代といえよう。これも、小泉首相をはじめとする政府が民間の活力に期待し、自由競争を促進さ せるために種々の政策を取った結果といえる。それはいいかえれば「弱者」に厳しい政策である。その路線でいいのかどうか、また歪みが生まれてきているとす れば、どう修正していくかを議論しなければならないと思うのだ。

来年は団塊の世代が定年を迎える。大量の退職者はその後をどう過ごすのか、また経済的社会的にどのような影響が出てくるのか、さまざまな問題が生じるこ とだろう。民間で生じた歪みや不平等感を正し緩和して、いわゆる弱者をフォローしていくのが政府の大事な仕事のはずだ。その点も含めて、緊縮財政の元、根 本的なお金の使い道に関してもっともっと論議がほしかった。(住)

2006.2月号

ホリエモンの逮捕・はびこる金儲け第1主義


既成の社会通念を壊して新しい社会を切り開く先駆者として、また時代の寵児として、マスコミにもてはやされていたホリエ モンこと堀江貴文氏が、逮捕された。容疑は証券取引法違反。詳しくはわからないが、要は公けであるべき株価を巧みに操作して、私的な利益を、しかも巨額の 利益を上げたということだろう。

そのために実態のない組織、言い換えれば株操作を目的にして団体を作ったり、次から次へと企業を買収し、その株を細分化して株価総額を高めたり、また会計の粉飾などを行ったりして「私腹」を肥やしたとされる。

そこから見えてくるものは、第一に「お金のためなら手段を選ばず」という自己本位の人生観だ。そしてまた、知識さえあれば、今の世の中、やり方次第で巨 万の富が得られるということだ。そこには、人との信頼関係を基に、お互いに他を潤していくといった相互扶助、社会性が微塵も見られない。まるでゲーム感覚 で企業をとらえ、右から左へ動かすことによって、お金を得る。いかにお金を多く得るかで成功者、勝ち組が決まる、といった感覚なのである。

しかし、これは、たまたま法に触れたホリエモンあるいはライブドアだけに限ったものまでは、私はないような気がする。今の経済のあり方そのものが、まさ に株価の上下のみに目を奪われ、もっとも基本となる社会的に必要な事業なのかどうかの目が見失われているように思う。株の変動で一瞬の内に、何十億、何千 億のお金がもうかったり、損したりすること自体、どう考えてもおかしい。

いっそのこと、物々交換の経済に戻ったらとも思う。まぁ、それは今の時代、不可能なことかもしれないが、そう思いたいほど、欲だけで成り立ち、あまりにも人間の心を疎外した今の経済のしくみなのである。(住)

2006.1月号 新年号


既成の社会通念がどんどん崩れていっている感がするここ数年ですが、そんな時だからこそ、もう一度、自分にとって何が大事か、じっくり考えてみたいものです。

ところで、2005年の日本の人口は約1万人減少したそうです。第二次大戦以降、初めてのことで、これから減少の一途をたどることは間違いありません。

これまでは競争、競争、だったかもしれませんが、もう競うことに力を注がなくてもよいのではないでしょうか。それより、どう心を通わせ、協調と連帯の社会を構築するかを考える方が、自分自身にとっても、よりよい生き方につながるのではないでしょうか。

西欧で起こった人間復興のルネッサンスは、宗教改革を経て、産業革命、市民革命へと発展していきました。また、帝国主義、植民地政策は大規模戦争を引き 起こし、民主主義が誕生しました。しかし、この500年にわたる人類の動きは、言い換えれば、人間の欲望を充足するために辿った道といえるのではないで しょうか。よりよい物を、より便利なものを求めて人びとは自然を破壊し、また科学技術を発展させました。そして、今は情報で、その欲求を満たそうとしてい ます。

均一のものを大量に生産し安く売ることによって、多大な利益を得る。それはどうしても競争になります。そして勝ったものだけが、生き残れるのです。そういう社会では、一部のものだけがいい目をし、大半が落ちこぼれてしまいます。

そうした社会の仕組み、経済の仕組みを根本から変える時期に来ているのではないでしょうか。仏教では、この際限ない煩悩をいかにコントロールするか、がひとつの目標になっている教えです。「少欲知足」―この心を大事にしたいと思います。(住)

2005年の『正福寺だより』です

2005.12月号

新型インフルエンザ流行の兆し


冬到来で風邪の季節になったが、今、全世界で、強い毒性を持つ新型インフルエンザの流行が懸念されている。専門家の話では、すでに流行は避けられず、秒読み段階に入っているという。

これは、東南アジアや中国で発生している鳥インフルエンザが現在、「鳥から鳥」の段階から「鳥から人」への感染段階に入っているが、それがやがて「人から人」への感染に移行することが確実なためだ。ウィルスも生き物で、どんどん変異するものらしい。

新型インフルエンザが日本で流行すると、四人に一人が感染し、最大六十四万人もの死者が出ると予想されている。この数字には正直、驚かされる。昨年のス マトラ沖大地震は過去百年間でも最大級の人的被害を蒙ったが、それでも二十数万人の死者・行方不明者だった。また、近いうちに起こるであろう東南海・南海 大地震でも一万人か二万人の死者といわれる。いかに大きな数か、わかるだろう。

ほぼ百年前の一九一八年に大流行したスペイン風邪(これも鳥インフルエンザの変異型らしい)では、全世界の人口の約半分の人が感染し、推定四千万人から 五千万人の死者が出たという。さらに遡って十四世紀にヨーロッパで猛威を奮ったペスト(いわゆる黒死病)では全人口の三分の一が亡くなったといわれ、これ が一因でヨーロッパの中世が崩壊したとされているのだ。

今、異常なほど健康への関心が高まっているが、これはそれだけ病気への不安、死の回避傾向が強いということでもある。もし、流行すれば、パニックと無秩序な行動で大混乱するのではないか、それが一番心配だ。(住)

2005.11月号 報恩講特集

今年の報恩講は、ニューヨークからご講師招来――夜の音楽法要は『観経』を現代語で。


「報恩講(ほうおんこう)」という浄土真宗の門徒にとって、一番大切にしてきた法要が今月19日、20 日、正福寺で営まれます。これは、宗祖と仰ぐ親鸞聖人のご恩に報謝する集いではありますが、今を生きる私自身が仏法に遇い、自らの生きざまを知らされ、ま たその行く末を確かなものにしていく集いでもあると思います。

日頃あまり仏法を聞く機会を持たない人は、特にこの法要に参拝くださり、ご法話に耳を傾けてくださるよう切に願っています。

今年の報恩講には、昨年私が訪れ、お世話になったニューヨーク本願寺の中垣顕実師が、はるばる来られます。あの同時多発テロで悲嘆にくれたニューヨーク 市民の心に灯火をと駆け回られ、仏法の心を語られ続けておられるお方です。いわば、現代社会に生きる私たちすべてに共通する問題を、中垣師の言葉を通し て、仏法に問い聞いてみたいと思っています。どうか、皆さんもご一緒に聞きましょう。

また、恒例の夜の法要(19日18時から)は、「王舎城の悲劇」を縁に説かれた『観無量寿経』を現代語でお勤めいたします。自分の息子が、その父であ り、自分の夫である王を殺害しようとしたことで悲嘆にくれる王妃・韋提希に、お釈迦さまは阿弥陀仏とそのお浄土を目の当たりにお見せになり、すべての人び とが救われていく道をお説きになります。音楽と映像を交えて勤められる中で、お釈迦さまの、また阿弥陀の大悲のお心に触れていただきたく思います。その後 のお斎では、北條不可思師の音楽も聴いていただきます。中垣師やその他のゲストとの語らいもきっと感動されることでしょう。ぜひ、お参りください。 (住)

2005.10月号

コウノトリの放鳥で試されるもの――本気で自然環境を取り戻すのか…?


住みよい自然環境を取り戻すことに、日本は本気になれるだろうか――。それが試されるような行事が、先月、兵庫県の豊岡市で行われた。コウノトリの放鳥である。

 コウノトリは日本ではいったん絶滅したが、人工飼育によって徐々に増やされ、そのうちの5羽が去る24日、豊岡の「コウノトリの郷公園」から大空に放されたのだ。コウノトリが野生で生きていくためには、エサのドジョウやカエルが棲む川や田んぼがなくてはならず、また巣作りのためには高く大きな木々が茂る山林がな くてはならないそうだ。そうした自然環境が失われたからこそ、絶滅に追いやられたわけだが、はたして、これまで行ってきた環境整備が功を奏して、再び野生 化し、繁殖できるまでに、自然が回復されているかどうかである。

高度経済成長に乗って大気汚染、自然破壊を繰り返してきた日本だったが、公害問題の深刻化から、地球規模での自然保全の必要性を自覚し始めた。いわゆる「地球にやさしく」である。

しかし、経済の基盤はやはり都市にあり、人工的なものに頼っているのが現状だろう。自然はあくまで人間のために利用していくものという認識は変わっていないように思う。依然として絶滅していく動植物は跡を絶たないし、都市部で野生の動物が棲むのはむずかしいだろう。

そうした中で、他の動植物とともに暮らせるような自然環境を本気で取り戻そうとするのか、が問われる。私なら、宇宙開発が進んで他の天体に住めるようになったとしても、さまざまないのちとともに生きる地球に住んでいたい。(住)

2005.9月号

今度の衆院選挙で政治の世界も変動する?――御免蒙りたい、温もりなき改革


小泉首相の念願だった郵政民営化法案が参院で否決され、いきなりの衆院解散、総選挙となった。それ以後の動きを見ている と、ようやく政治の世界もこれまでの常識が根底から揺らぎ始めているのがわかる。その点で、今度の選挙は国民の注目を集める選挙になることは間違いないだろう。

否決の原因を作った自民党内の反対派議員は執行部から袋叩きに合い、もはや自民党に残ることも、また当選することもかなわない状況に追い込まれてしまっ た。これまでなら、なあなあで済ませていたのだろうが、今度はそうでないらしい。そこで、反対派は「国民新党」やら「新党日本」やらを旗揚げし、議席確保 に懸命になっている。

こうした自民党・与党内の激しい変動と、小泉首相の郵政民営化に賛成か反対かの印象が強すぎて、野党の存在が目立ちにくいのも事実だろう。

どの政党、候補者も口を揃えて「改革」を叫んでいるが、たとえば、今回提出された郵政民営化がはたして国民にとって望むべき「改革」なのかどうか、その 判断は相当難しいといわねばならない。時代の流れ、世界の流れに沿うことが必要なのか、それとも時代に流されることなく、大事なものを保ち、また取り戻す ことが必要なのか、そこをしっかりと見極める目が国民一人ひとりに問われている気がする。ただ、人の温もりを失わせる「改革」だけは御免蒙りたい。(住)

2005.8月号



8月15日は、ことしで終戦60年を迎えるとともに、お盆の由来となった目連尊者の母が餓鬼道から救われた(但し1ヵ月遅れですが…)日でもある。

年月が経って、戦争の悲惨さを体験された方がだんだん少なくなっており、平和の尊さを実感として噛み締められない世代が多くなってきているからだろうか、武力によって言うことを聞かせようとする世界の動きに、日本も同調するような気配が感じられる。

ここは、終戦時の原点に戻って、日本こそが非暴力、平和主義を貫いて、武力あるいはテロにより物事を解決しようとする動きに「待った!」をかけなければ ならないと思うのだが、こうした思いも政府や各界のリーダーたちには、なかなか通じず、逆に「甘っちょろい」と言われそうだ。

ここは、やはり戦争体験者に、戦争の酷さ、人間の愚かさを大いに語ってもらいたい気持ちだ。

ともあれ、終戦の日がお盆に重なっているのは、ある意味で有り難い。というのも、戦争で亡くなられた何千万人もの人びとの心底の願いを聞くことと、『盂 蘭盆経』に説かれる「親、先祖を敬うことの大切さ」に共通点があると思うからだ。すなわち、今ある私のいのちは、数限りないいのちに育まれ、支えられ、そ の願いを受けて存在していると気づかされる点だ。その御恩を忘れ、恥じることのない人は「人とは呼ばず、畜生と呼ぶ」と親鸞聖人も述べておられる。その8 月15日がまもなく訪れる。(住)

2005.7月号

両陛下サイパンで平和への誓い――一方で絶えない『正義』の戦争


6月27、28日の2日間、天皇・皇后両陛下はかつての激戦地・サイパンに赴かれ、現地の戦没者碑の前などで首を垂れられ、犠牲者を偲ばれた。

これは歴史的なニュースであるはずなのに、なぜかマスコミの取り上げ方は小さい。いまだ中国、韓国といった隣国に赴かれていないことや、靖国への参拝も実 現していないことなど、微妙な政治的問題を抱えているからだろうが、そんな中で、両陛下が戦没者を偲ぶ目的ではじめて海外へ赴き、犠牲になったすべての 人々に哀悼の誠を捧げられたことの意義は大きいといわねばならない。

本来ならば、どこへでも出かけて行って、兵士・民間人を問わず、また国籍を問わず、すべての犠牲者を悼み、お詫びし、非戦を誓われたいところだろう。その お心は、公表されなかった沖縄や韓国の犠牲者の碑に拝礼され、「バンザイクリフ」での黙とうを長々と続けられたことからも想像できる。
現状でできる精一杯の行動を両陛下はとられたのではないか。その並々ならぬ決意とそこに込められた平和への願いが伝わってくるのは、私だけだろうか。

一方で、今も世界各地で戦争の火種は絶えない。そして武力を用いるときの口実はいつも決まって「悪」を成敗するための「正義」の戦いなのだ。先の大戦で は日本は「悪」であった。しかし「正義」ならばいくら人を殺してもいいものだろうか。米大統領もサイパンや沖縄の犠牲者に心からの哀悼を捧げる日がきて、 はじめて恒久的な平和が実現するように思う。(住)

2005.6月号

老齢の元日本兵の帰国への想い――帰るところがあることの大切さ


フィリピンのミンダナオ島で、元日本兵2人が生存しているというニュースが5月下旬、もたらされた。もっとも、未だに接触ができず確認されていないので、真偽のほどは定かではないが、もし、事実なら60年もの長い間、人目を避けて、山中で暮らしていたの だろうから、肉体は言うに及ばず、心的疲労もどれほど激しかったことだろうか。その強靱な精神力に脱帽するしかない。よく耐えてこられたものだ。

情報によると、その2人はすでに80歳を超え、老境に達しておられる。戦争により翻弄された人生だったが、その人生の締めくくりが近づくにつれ、これまで 以上に、望郷の念が潮のごとく押し寄せてきたとしても不思議ではない。「日本に帰りたい」と言われる心情が痛いほど伝わってくる。

それにしても、改めて思うことは、帰るところを持つことの大切さである。心から安らぐことのできるところ、気を張ることなく、心配せずとも温かく迎え入れ てくれるところ、そういうところがなかったならば、どれほど不安で、落ち着かないことだろうか。また、生きる意欲も削がれるというものだ。

元日本兵のニュースは、そうしたふるさとの大切さを思い起こさせてくれたが、今の日本に、はたして心から落ち着ける場所をどれほどの人がもっているのか、 心もとなく思ってしまう。ふるさとは様変わりしているだろうし、我が家もただ寝るだけのところと思っている人も少なくない。そして、どこにも居場所を持た ない子どもたち、若者たちがどれだけいることか。

この人生を終えて帰るところはお浄土である――親鸞聖人は教えてくださった意味を今一度噛み締めたいものだ。(住)

2005.5月号

激化する中国の反日感情に――米国式の進歩感で感情にズレが


 尼崎の列車事故のニュースで影が薄くなってしまったが、このところの中国の反日感情激化が気になる。先日、インドネシアで小泉首相と会談した中国の胡錦濤主席の笑顔なき表情からも、その深刻さがうかがえた。

北京、上海など主要都市で相次いだデモと暴徒化した人々の様子が映像に流れると、日本人としては多少ならず憤りを覚えてしまう。だが同時に、中国の人々が 「首相の靖国参拝」や「日本の常任理事国入り」に断固反対し、「軍国主義復活」に対する懸念を切実に抱いていることもわかった。

一方の日本人はといえば、自分たちが「軍国主義の復活」向かっているとはさらさら思っていないだろう。むしろ経済発展が著しく、国土も人口も圧倒的に大きい中国に脅威を感じているくらいだ。
こうした両国民の認識と感情のズレをどう縮めていくかが今後の課題になろう。

その観点から日本の姿勢を見直すと、思い当たることがないでもない。それは日本人の目は米国に向けられているということだ。日本人のイメージとして「進 歩」「時代の先端」はアメリカであり、都市でいえばニューヨークなのだ。中国は市場としての魅力は絶対だが、あくまで「遅れている」国であり「指導してあ げる」国なのだ。その目が陰に陽に、中国に伝わるのだろう。

しかし、かく言う中国もアメリカに目が向いているのだから、始末におえない。

考えれば、お互いが疑心暗鬼のまま、突き進んでいこうとしているのは、ともにアメリカ式の経済であり、西洋的発想ということになる。そこに私はいちばん、危惧を感じている。心の温もりを第一にするような同朋の社会の実現がいつになったら実現することだろう。(住)

2005.3月号

喜田さん 長い間ありがとう!――我が家のようなお寺からお浄土へ


今月は勝手ながらひとりのご門徒のことを書かせてください。

その人は喜田千鶴子さんです。先月12日、「ダーナの集い」のバザーが始まる直前にお寺の本堂で倒れられ、そのままお浄土へと往かれたのでした。前日も 前々日もバザーの準備に元気なお顔でお寺に来られていました。その日も別段、変わったところは見受けられず、婦人会員の方がたと最後の打合せをして、バ ザーに備えられていたのです。それが突然、如来さまの真ん前で、しかも多くの親しい仲間たちに囲まれて、喜田さんは往かれました(満82歳)。

喜田さんは私が生まれる前からずっとお寺に関わってくださっていました。大きな法要から常例法座、お勤めのけいこに至るまで、喜田さんの顔を見ないときは ないぐらい、いつもお寺に来てくださっていました。熱心にお聴聞されることはもちろん、法要・法座の前には誰にいわれることなく、掃除をして、座布団や机 を並べて、始まるのを待っておられました。行事のない日を見計らって座布団カバーの洗濯やら、本堂のトイレ掃除もされていました。

毎月お参りに行って、よく聞かされたことは、 「私、お寺が好きですねん。私からお寺を抜いたら楽しみがなくなりますわ…」という言葉です。 その喜田さんが我が家のように思われていたお寺の本堂で息を引き取られました。まるでそのまま阿弥陀さまに抱かれてお浄土へ参られたかのようです。

今、正福寺の本堂余間に喜田さんのご遺骨が安置されています。まさにお浄土から私たちをやさしい眼差しで見守ってくださっているように思えてなりません。(住)

2005.2月号

会長の辞任でNHKは変わるか?――欲と不安を増長するばかりの民放


NHKの海老沢会長が先月25日、一連の不祥事の責任を取って辞任した。

辞任の心境を、国定忠治になぞらえて「赤城の山も今宵限り…」と語ってみたり、未練がましく顧問に執着したりと、どうやら権力志向の沁み込んだ人物のよう だが、それはそれとして、素朴な疑問は、この人が辞任したからといって、果たしてNHKが変わるのだろうかということだ。国民の受信料で運営される公共放 送としての性格上、政治家や圧力団体の影響は避けられないだろうし、中身についてもさまざまな制約があるだろう。例えば番組作りにしても、先に結論があっ て、それに沿って都合のよいところだけを取材し肉付けしていっているのではないか。公共面から考えると、意外性よりも体裁が優先される。したがって、無難 だが、面白みのない番組になりがちなのだ。

また、その影響力と財力の大きさから、驕りや甘い汁を吸おうとする輩も生まれるだろうし、公共性という伝家の宝刀を振りかざして現場に干渉し、局内での権力を握ろうとする連中も出てくるだろう。
そうして出来上がった独特の雰囲気を打ち壊し、けっしてやらせではなく、人間味あふれる番組を提供し続けるには、よほどしっかりとした人間観・世界観を個々の職員が持つ必要があるように思う。

興味深い場面になるとCMを入れたり、人の人生を高圧的に裁断する怪しげな運命論者を多用したり、欲と不安を増長させるばかりの民放に比べれば、まだ優れた番組の多いNHKに頑張ってもらわないと、それこそ国民がダメになる。(住)

2004年の『正福寺だより』です

2004.12月号

韓流ブーム ぺ・ヨンジュンさん来日で思う


先月下旬、韓国の人気俳優ぺ・ヨンジュンさんが来日したときの大騒ぎはいったい何なのか、どうなっているのかと、一瞬、訝しく、あっけにとられたのは私だけだろうか?

成田空港にはぺさんの姿を一目見ようと、開港以来最高の三千五百人のファンが詰め掛け、「押すな押すな」の争いが繰り返され、東京のホテル前では、ついにケガ人まで出る始末。その場は、おそらく我欲のぶつかり合いで修羅場と化し、譲り合い精神は皆無だったことだろう。
また、マスコミの取材も過熱し、ヘリコプターを飛ばしたり、バイクを走らせたりして、移動するぺさんの一挙手一投足を追っていた。「あっ、今、ハンカチで顔の汗を拭きました」と、異常なまでに興奮してしゃべるレポーター氏。これは何なのか?

必死に近づこうとしてもぺさんの姿を見れなかった人は悔し涙を流し、運よく見れた人はうれし涙を流す。肩越しに髪の毛が見えたと喜んでいた人もいた。ソワソワ、ドキドキ、ウキウキ…。いったいどうなっているんだろう?

ドラマ「冬のソナタ」が韓流ブームに火をつけ、映画、テレビでさかんに韓国ドラマが取り上げられ、ロケ地をツアーに組み込んだ韓国旅行が盛況を極めている といわれる。こうしたブームを通して韓国の文化を知ることはもちろん有意義なことだが、それがいわゆる四天王とよばれる人気俳優の追っかけだけに終始して いたのでは、ほんとの意味での文化理解には至らないのではないか。心が宙に浮いたような日本人の振る舞いが気になる。(住)

2004.11月号

「人は亡き人の願いを受けて生きている」


新潟県中越地震で、土砂に埋もれた車から2歳になる皆川優太ちゃんが生きて救出された。レスキュー隊員に抱かれて出てき た優太ちゃんの姿を見て、誰もが「よく生きていてくれた!」「さぞ心細かっただろうに、よく頑張ったね」と、小さないのちの生還に拍手をして喜んだのでは ないだろうか。
残念ながら母親の貴子さん、姉の真優ちゃんは亡くなったが、救出した隊員の1人は「優太ちゃんには、お母さんやお姉ちゃんの分までいのちを大切にして頑張って生きていってほしい」と、願いを込めて語っていたのが心に残った。

この言葉に私は、先日の報恩講で藤大慶先生が触れておられた阪神大震災で母親を亡くした青年の話を重ね合わせた。青年は神戸市長田区の自宅が倒壊し、その 後の火災で母親が家の下敷きになったまま焼死したのである。火の手が迫る中で助け出そうとする青年に母親は「早く逃げろ!」と叫んだという。青年は後ろ髪 を引かれる思いでその場を立ち去ったが「母親を見殺しにした」という後悔の念が自分を責めたという。その青年が、震災後の法要で、藤先生のご法話を聞いて 「母親は、この自分が苦難にくじけず、人生を前向きにしっかりと歩むことを願っているのだ」と気づいたという。

「亡くなっていった数限りない人たちの願いを受けて、いま自分たちは生きている」ーそのことに気づいたとき、人は勇気を持って生きていけるのだろうし、自他のいのちも大切にしようとする心が生まれるのではないか。優太ちゃんもそんな人生を歩んでいってもらいたいものだ。(住)

2004.9月号

強まる民族意識で肝に銘じておくこと


アテネオリンピックで、日本選手が予想以上の活躍をみせた。思っても見なかった人が金メダルを取ったり、反対に間違いないと思われていた人がどのメダルにも届かなかったりと、個々の選手にとっては悲喜こもごもだったことだろう。

さて、このオリンピックだが、いつも感じることは、選手は単に個人の能力を発揮すればよいというのではなく、その背中につねに国家を背負って競技をしてい るということだ。金メダルを取れば、表彰台の一番高いところで流される国歌を聴きながら、掲揚される国旗を仰ぐ。銀と銅も自国の国旗が掲揚されるのだ。選 手の栄誉はそのまま国家の栄誉になっているかたちなのだ。

また、競技を見る人びとも、ほとんどすべての人が間違いなく、その選手がどこの国の人かを意識し、自国の選手を応援する。そして金メダルをいくつ取るか、自国のメダル数がいつくになったかにもっぱら関心を寄せている。かくいう私もそんな一人なのだが…。

オリンピックは「参加することに意義がある」というクーベルタン男爵の言葉はもはや虚しく響き、国家の威信と自分たちの民族の優秀性を競う場になっている ようだ。中国で開催されたサッカーのアジア大会で、中国人の反日感情が露呈したが、中国と韓国の間でも、「高句麗」でもめている。

民族意識が強まると、他民族を貶し、自らの民族の優秀性を誇示しようとする風潮が表われてくるものだ。お互いの違いを認め、共存することの大切さを、このあたりで改めて肝に銘じておく必要があるように思う。(住)

2004.8月号

1リーグか 2リーグか?――巨人中心の発想から脱却を!


近鉄とオリックスの合併問題をきっかけに、1リーグ制か2リーグ制かで今、プロ野球はもめている。 巨人とパ・リーグの各球団は1リーグ派、阪神を中心とするセ・リーグ5球団はとりあえず組も含めて、2リーグ派となっている。

パ・リーグが1リーグ移行を望んでいるのは、全6球団が赤字経営なのが最大の原因で、1リーグ制になれば巨人選があり、 それによって赤字が解消されると見るからである。

それに対して、巨人以外のセ・リーグの球団が2リーグ制を押すのも、やはり巨人戦がからんでおり、 1リーグになるとこれまでより巨人戦が減り、その分収入も減るというわけだ。

パ・リーグの球団とは違って黒字経営の巨人が1リーグをめざす理由は、米国の大リーグとの実質世界一を決める選手権を めざしているからに他ならない。

巨人の覇権主義が改めて浮き彫りにされるのだが、他の多くの球団経営陣もやはり巨人と似たり寄ったりの発想だとつくづく思う。 というのは、阪神が全国区になってきた理由のひとつが巨人の覇権主義への反発であり、もっと地域や庶民生活に密着した形の 野球を望んでいるにもかかわらず、相変わらず巨人中心の発想で、選手やファンをないがしろにしたような球団の運営に終始して いるからだ。 そ の点、広島カープは、観客動員数がパ・リーグも含め、12球団中最少にもかかわらず黒字となっており、 そこには並々ならぬ努力と広島市民の熱いバックアップが見て取れる。これからは広島のような地域密着型を めざすべきだと思うと同時に、巨人中心の野球はいい加減、やめてもらいたいものだ。(住)

2004.7月号

見えてこない参議院の独自性-政党本位・公約等も衆院と変わらず


7月11日の投票に向け、今、参議院選挙運動が展開されています。争点は先の国会で年金制度法案が可決されたのに対する是 非や、 イラクへの多国籍軍派遣に自衛隊が参加するかどうかなどがあげられますが、基本的には小泉政権の改革路線をどう判断するかが 問われることでしょう。
しかし、改めて思うのですが、参議院の独自性が見えてこないのは私だけでしょうか?参議院は「良識の府」といわれ、時代の流れに 左右されない長期的展望の上に、日本がどうあるべきか、どう行動すべきかを審議するところであったはずです。そのため、途中解散も なければ、当選すると6年の任期が保証されているのでしょう。

ところが、多くの候補者が政党本位で動き、公約等の政治姿勢もなんら衆議院議員の候補者と変わらないように思うのです。 つまり、衆議院と参議院、それに所属する各議員の間で違いが見えず、みな同じように思えるのです。

これでは、何のための二院制なのか、はなはだ疑問に思います。特性も発揮せず、衆議院と同じようなことをしていたのでは、 二重になり、税金その他の無駄遣いは明らかです。まして首相の指名や予算の議決等は衆議院が優先されるのですから、参議院は格下と いう印象が免れません。

いま日本は、世界中もそうですが、人間社会の秩序をどう立て直すか、大変重要な局面にさしかかっているといわねばなりません 。人間の本質を鋭く見極め、それを基に、どういう社会をめざしていくのか、その方向性と具体的提言を与える深い見識と智慧が求めら れているのです。それこそ、参議院がそういう役割を担うところであってほしいと思います。(住)

2004.6月号

ニューヨークのお寺を訪問して――憂える現況見つめる被爆聖人像


5月下旬、ニューヨークに行ってきました。向こうのお寺(ニューヨーク・ブディストチャーチ)で宗祖・親鸞聖人の降誕会があり、かつ正福寺に馴染み深い北條不可思さんのコンサートもあるというので、皆さんにご無理を言って、実現させてもらったわけです。

お寺といっても、ニューヨークです。日本の伝統的な木造建築とは違って、洒落た洋風の5階建てです。訪れたとき、そこがブディストチャーチだとは気づきま せんでした。周囲の建物も同じような格好をしていたからです。ただひとつ違っていたのは、隣り(本堂の前)に大きな親鸞聖人の銅像が立っていたことです。 元は広島にあったのですが、原爆に遭った後、平和への願いを込めて、ニューヨークに移されたのです。テロが頻発し、武力で問題を解決しようとしている現況 を、聖人はどんな気持ちでご覧になっているだろうかと、ふと思いました。

北條さんのコンサートも、あの同時テロとそれ以降の武力行使に心を痛めつつ、平和への願いを歌に託して訴えたものでした。仏さまの願いがこもったコンサートでした。

日系の人以外に白人、黒人、その他の人びともおられましたが、もっと大勢の人に聴いてもらえたらというのが正直な感想でした。

本堂内はもちろんイス席で、法要の前に瞑想(沈黙)の時間があったのが意外でした。中垣ご住職にうかがうと、お念仏の習慣のないところなので、お念仏を申 していただく前に心を落ちつかせてもらうため、とのことでした。そのほか、和讃の拝読では日本語に続いて、英語で意味を言うところもおもしろかったです。

仏教の土壌のないところで教えを伝えることの大変さを垣間見せられました。(住)

2004.5月号

世の中から男がいなくなる?――卵子だけでマウスの子が誕生!


「世の中から男がいなくなる‥かもしれない?」――そんな嫌な想像をしてしまうニュースが入ってきた。メスの卵子だけでマウ スを誕生させることに、東京農業大学の研究チームが成功したというニュースである。遺伝子を操作することによって精子に似せた卵子を作り、それを別の卵子 に移植する方法でマウスの赤ちゃんが誕生したのだという。ほ乳類ではこれまで不可能とされていたことが現実になされたのだそうだ。

研究の目的は別のところにあるにせよ、日常レベルの感覚でいえば、やがて人間でも同じことができるのではないかということだ。つまり、男がいなくても子ができ、女性ばかりの世の中にも成りうるということだ。

女性の社会進出が目覚ましく、女性の生き方が活発に論議される中で、これまで家庭の大黒柱となっていた男の影がだんだん薄くなってきた。第一、男が身体を 張って打ち込めるものがあまり見当たらない。仕事しかり、保護すべき妻も逞しくなってきた。若い女性からは「オヤジ」と半ば軽蔑ぎみに呼ばれ、母子中心の 家庭からは「のけ者」扱いされたりもする。若い男は男で、ファッションや遊びがもっぱらの生きがいとなり、女性の好みに合わせる傾向もある。これを中性と いうのであろうか?
とにかく、強く逞しい、一本筋の通った男性像が見出しにくい現状であることは確かだ。人類の将来や人間のあるべき姿などを大局的に押さえ、その上で自分や家族がどうあるべきかを考え実行する――そんな男の特性が発揮されれば、女性ばかりの世にはならないと思うのだが‥。(住)

2004.4月号

閉ざした心に届け!如来の大悲


2月27日、東京地裁でオウム真理教教祖・松本智津夫被告に死刑が言い渡された。予想された事とはいえ、これで被害者や被 害者の遺族の気持ちが晴れるかといえば、もちろんそうではない。相変わらず真相を語らず、無視し続ける松本被告の態度に虚しさや憤りを感じている人も多い ことだろう。遺族の気持ちからすれば、極刑とともに、真相の究明と、心からの謝罪が望まれるところだ。
しかし、「死刑」というかたちは決まっても、「こころ」の問題は何ひとつ解決していないのだ。松本被告が「沈黙を続けている」ということは、他者との接触 を拒んでいることだ。すなわち、他者と向き合い、心を開くことを拒んでいるのだ。すでに、9年前に逮捕された時からそう心に決めていたのかもしれない。

自ら教団を創設し、教祖となって、信者も大勢できた。それは、自分の手先となって、自分の意のままに動かせる「人形」的存在ができたというのに過ぎない。 自らの内面にある寂しさ、つらさ、悔しさ、虚しさをわかってもらえる人、裸のままの自分を認めてくれる人についに出会うことがなかった。代わりに、虚栄 心、妬み、支配欲、腹立ちといった専制的横暴な心だけがますます増長していったのだろう。彼の生い立ちから教団創設に至るまでの経緯を見ると、そのことが 一層、明らかになってくる。一言でいえば「愛されている」ことを実感することなく、その喜びを体験することなく過ごしてきた人生だったのではないか。

如来さまの大悲、呻きのお心が聞こえそうだ。「なんとしても、この松本の心を解し、心を開いてやりたい」――その如来さまのお心が届くようにと願わずにおれない。(住)

2004.2月号

誤魔化しは恥の上塗り――如来の大悲心が愚者に届いている


古賀潤一郎衆議院議員の学歴詐称疑惑が連日、派手に報道されている。当選するために虚偽の経歴を記すことは公職選挙法で 禁じられており、違反すると議員資格を失うことになる。それを十分承知していたのだろう。古賀氏は疑惑が起こった当初、ペパーダイン大学を間違いなく卒業 したと主張し、わざわざ開会中の国会を休んでアメリカまで確かめに行ったのだった。

そのあたりからして、胡散臭さが漂っていた。結局、卒業していないことが明白になると、今度は前言を翻し、離党してでも議員活動は続けると涙ながらに有権者に報告、残りの単位を取得するとか、議員報酬は受け取らないとか筋違いなことを言い出した。

しかし、ペパーダイン大学の件に限らず、UCLAなのかカリフォルニア州立大学なのか知らないが、そこにも在籍した記録はなく、いかにいい加減な経歴公表だったかが次々にさらけ出された。未練がましく言い訳しているうちに、恥の上塗りになってしまった格好だ。

正直に「嘘をついていました。すいません」と言えば、すっきりするのだろうが、それができないのが私たち人間なのかもしれない。体裁や見栄で、自分を誤魔 化すことは誰にでもあることだろう。それがいかに愚かなことであるか、また苦しむことになるか、今回の学歴疑惑騒動で、古賀氏が身をもって教えてくれたよ うに思う。

「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろづのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに…」である。だからこそ如来さまは大悲のお心を起こされ、私に届けてくださっているのだと、味わさせてもらった。(住)

2004.1月号

心の温もり感じる特別な日


「もう幾つ寝るとお正月。お正月にはタコ揚げて、コマを回して遊びましょう。早く来い来い、お正月」

子供の頃、よく歌っ た童謡だが、そうしたお正月風景はこの頃、すっかり影を潜めてしまった。家族そろってお雑煮を食べ、親戚が集まって新年の挨拶を交わし、子どもたちもそ ろってカルタや羽子板、たこ揚げなどのお正月の遊びをする-そんな特別な三日間だったものだ。それがこの頃は、単なる連休にすぎないような感覚で、旅行に 行ったり、家族や親戚が一同に会することなく、個人個人が別々に行動したりと、様変わりしてしまった。第一、元日から店が開いていることなど昔は考えられ なかったが、今では開いているお店はざらにある。そのあたりもふだんの休日といったところだろうか。

待ち遠しく思うのも、今はお正月よりクリスマスの方が も知れない。

昔のお正月は、私など心浮き浮き、楽しくてしかたなかった。新品の肌着と服を着せてもらって、家族がみんな揃って「おめでとうございます」と挨拶を交わ す。子どもらはやがて集まってきた従兄弟らとともに、コマ回し、たこ揚げ、カルタと楽しい遊びが目白押しだ。こんなひとときはお正月しかなかった。

そこには、人と人との触れ合いがあった。家族や親戚の人々との絆が確かめられたように思う。心の温もりがあったればこそ、お正月が待ち遠しかったのに違いない。それが失われつつあることが寂しい。何か心の温もりを感じさせる、そういうお正月にしたいものだ。 (住)

2003年の『正福寺だより』です

2003.12月号

「いのち輝け!は、仏の願いでもある」


年を取ったせいだろうか、最近の歌はどれも同じような曲に聞こえてしまうのだが、この曲だけは違っていあた。SMAPの「世界に一つだけの花」である。
シングルが二百万枚を超え、ことし一番のヒット曲になったそうだ。人気グループが歌う曲ということを差し引いても、なかなかいい歌だと思う。第一に、歌詞がいい。

――花屋の店先に並んだいろんな花を見ていた

人それぞれ好みはあるけれど、どれもみんなきれいだね

そうさ、僕らは世界にひとつだけの花

ひとりひとり違う種を持つ

その花をさかせることだけに一生懸命になればいい

小さい花や大きな花、ひとつとして同じものはないから

ナンバーワンにならなくてもいい

もともと特別なオンリーワン

 

こんな歌詞が続く。

この歌詞を見て、ふと童謡の「チューリップ」を思い出した。「咲いた、咲いた、チューリップの花が。並んだ、並んだ、赤、白、黄色。どの花見てもきれいだな」というあれである。

ともに、花に託して、すべてのいのちのすばらしさ、またそのいのちを精一杯輝かせることの大切さを語ってくれている。 この精神は『仏説阿弥陀経』に説かれている浄土に咲く蓮華と共通している。「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光…」と、蓮の花が輝くさまが述べられ ているが、それを現代風にいうと、「チューリップ」になり、「世界に一つだけの花」になるのだろう。

「どのいのちも輝かさずにはおかない」という阿弥陀さまの願いが、これらの歌を通して味わえてくるのは、私だけだろうか。(住)

2003.10月、11月号

「気になる『切り捨て』の雰囲気」


9月20日に行なわれた自民党の総裁選で、予想通り、小泉首相が他の三候補を圧倒して再選された。その後、小泉総裁は幹事 長に49歳の安倍晋三・前内閣官房副長官を抜擢するなど、これまでの年功序列、派閥均衡の原則を崩し、自らが掲げる構造改革を強力に推し進める決意を示し た。

亀井静香氏や野中広務氏などのいわゆる「抵抗勢力」は、もはや蚊帳の外に追いやられた感が強いが、この総裁選で浮き彫りになったのが、派閥の無力化、結束 の崩壊である。最大派閥であった橋本派は、小泉寄りの青木参議院幹事長らと反小泉の野中元幹事長らが真っ向から対立、会長の橋本龍太郎元首相には何ら統率 力がなく、事実上分裂選挙になったのが印象的だった。戦後の自民党派閥政治が今、まさに終焉を向かえようとしているのだろう。

行き詰まる世の中を打開し、新たな活路を見出そうとするのはけっこうだが、ただひとつ気になるのは、どことなく漂う勝者と敗者の色分けと敗者の切り捨てで ある。二者択一的に一方が正しく、他方は間違いだから相手にしないという雰囲気は、もっとも危険な兆候といえる。派閥政治がいいとはいわないが、それぞれ の意見を集約し、お互いが譲り合って政策を決定したのには学ぶべき点がある。その過程でドロドロとした人間同士がお互いの存在を認めなければならないから だ。少なくともブルドーザーのように丸ごと排除することはなかったろう。

もちろん、今は大局に立って、強力なリーダーシップが必要な時期だとわかりつつ、少数派を切り捨て、己を過信して暴走することだけは勘弁願いたい。(住)

2003.9月号

結局頼りになるのは自分の足


先月、アメリカ・カナダの東部で起った大規模停電は、現代社会のもろさをくしくも露呈する格好となりました。

生活の足となる鉄道・地下鉄はストップ、交通信号も点灯しないものですから、車も大渋滞で動かない始末。退社時と重なったニューヨーク市民の多くは、結局 徒歩で数十キロも離れた我が家に帰宅したのでした。そればかりではありません。電気がストップすると、電話・コンピューターはもちろん、水道も出なくなる のだということを今回知りました。水を送り出すポンプは電気で動かしているのだそうです。

つまり、電気が止まると、移動・連絡は途絶え、炊事・洗濯・食事(冷蔵庫が使えない)、睡眠(空調が効かない)など、基本的な生活までができなくなるということです。電気なしでは生きられない、電気に依存する生活を私たち現代人はしているということでしょう。

結局、こんなときに頼りになるのは、自分自身の足だったというのも、何か教訓めいたところがあるのではないでしょうか。人類は「もっと早くもっと便利に もっと快適に」ということで、機械文明を発達させてきましたが、築き上げた機械とその仕組み、そして科学技術の成果はすでに個々の人間の能力をはるかに超 え、創り出した人間が制御するのにアップアップする状態にまでなっているのではないかと思うのです。「人間が機械を動かし、利用する」という立場が逆転 し、「機械のために人間が使われる」状態になってきたということです。

橋を歩く姿、喫茶店でロウソクの灯を囲んで語り合っている姿がテレビに映し出され、なぜかそこに人間味を感じてしまいました。(住)

2003.8月号

人の目に敏感な子どもたち


このところ小・中学生をめぐる事件が連続して起こっています。長崎の少年が4歳の子を殺害した事件、東京の少女4人が親に偽って渋谷に出かけ、監禁された事件。また、全国的に万引が多発しているという報道もされています。

「近頃の子どもはどうなっているんだ?」「将来が思いやられる」という声が聞こえてきそうです。確かに、私もそう思います。ですが、これらの「問題児」を 厳しく処分することで、また親を「市中引き回す」ことで、善処できるものでもないと思います。そういうムチも必要でしょうが、何よりも大事なのは、人を温 かく見る目の回復ではないかと思います。

先日、お寺のキャンプがありましたが、子どもたちは自然の中で、すぐに興味のあるものを見つけて夢中になります。しかし、自分たちがおかれている状況を まったく把握しないでただ遊んでいるのではないのです。ちゃんと大人の目が注がれていることを知った上で遊んでいるのです。その証拠に、やがて「次、何す んの?」と尋ねたり、しんどいマキ集めも、せっせとこなしていくのです。

印象的だったのは、一緒に行ってくれた若い女性を「アキちゃん」と親しく呼んでなついていたことです。ほかにも大人はたくさんいましたが、愛称で呼ばれて いたのはこの女性だけです。彼女の目は、子どもたちを上から見下ろすのではなく、同じ仲間として温かく注いでいる目でした。「人は自分をどう見ているの か」--子どもたちはそれを鋭く見抜く目を持っているのです。(住)

2003.7月号

SARS猛威ふるう


中国広東省で発生した新型肺炎SARS(重症急性呼吸器症候群)が今、猛威を振るっている。

29日現在の感染者は五千五百 人、死者は三百五十人にのぼる。どのようにして感染するのかはっきりとは解明されていないし、治療法も見つかっていないので、人々は一層不安を募らせ、さ まざまなところに影響をもたらしている。航空業界、観光業界はもちろんのこと、感染者の多い香港、北京などでは病院や学校の閉鎖・隔離、商店の休業が相次 ぎ、市民生活に支障をきたすまでになってしまった。経済的打撃はおそらくイラク戦争を上回ることだろう。

テロのときもそうだったが、今回の感染症でも、一つの出来事・現象がその場所だけに限定されずに、全世界に影響を及ぼすことを痛感させられた。すなわちSARSは、国際都市・香港を経由してカナダ、東南アジア、ヨーロッパまでまたたく間に拡がってしまったのだ。

今まさにグローバル化時代なのだが、それはよい意味でも悪い意味でもグローバル化なのだ。「地球は一つ」という言葉は、一昔前までは、人類のあるべき方向 を示すよい意味で使われていたように思うが、こうたびたび望ましくない現象が続くと、マイナスのイメージが強くなってくる。

もはや「自分のことだけを考えて他者には無関心」という時代ではないといえる。不安は他者を退け、自己中心に行動しがちになるが、こんなときこそ「持ちつ 持たれつ」-お互いが関わり合って、はじめて自分も存在しているという縁起の法を自覚する必要があるのではないか。自己の責任と他者との協力、共存。それ が今、人類に問われている。(住)

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