―― 仏教の知識の重要性について社会でどれだけ認識されているのかと振り返ってみると、ちょっとあやしいなあと思うことが多くあります。 たとえば、「生き物を殺めてはならない」。「汝、殺すことなかれ」と言ってみましょう。多くの人は、これを「殺してはならない」という禁止事項だと考え、「殺さないという状態」を守ればそれで良いと思う。 また、自死の可能性をはらんで問答する人にとっては、自身を殺めてはいけない理由が見つからずにつらい思いをすることになります。 こうした状態は、この言葉の意味を半分しか理解していない状態だと言えます。禁止事項の通達として受け取るだけでなく、殺める・殺めないという判断基準で計る事ができないくらいに自分や他のいのちの関係は素晴らしいものなのだといった、奥に隠れている意味を見つけ出す必要があります。
末本住職 社会生活を送る上での約束事を意味する道徳の善と仏教の善は違う。仏教は何を目指しているのかと言えば、さとり、真如を目指しています。道徳などは人間ありきの話しです。人間同士が秩序を保つと言うか、人間の約束事だとすると、仏教はその働きとは違う面を持っています。人間そのものの位置付けを知らされていく。自分とは何かを知らされていく道です。 仏教の教えで特徴的なのが、人間と他の生き物の比較。仏教は人間と他の生き物を差別していない。真如ということから見れば、人間と他の生物の間には上下関係はない。もっと究極を言えばその差別がない状態は生き物に限らない。ありとあらゆる存在、現象が個別に存在しているのではない。自分と他人の領域を線引きするのではない。真如に至れば、自他の境界線はない。そういう境地に近づく、心境になる、というのがさとり。その境地に至るのが仏教における善。 人間のため、人間の発展のために他の生き物を犠牲にしても良い、それだけ人間の発展に尽くしてくれた、感謝するが犠牲になっても仕方ないという発想は、仏教にはない。 ということは、自分の人生にこの世界観を降ろしてきたときに、生き物を殺してはならない、モノを盗んではいけない、といった禁止事項やタブーの奥には、あらゆるものが相依相関でつながっていることの理解がある。これらの禁止事項は、この理解に至る道に置かれた手がかりですね。 だから、その禁止事項を守ったからと言っても仏教でいうさとりにはならない。守ったからと言ってそれが、さとりに近づくことにさえならない。生き物を殺してはならないという言葉の中身を知ることによって初めて近づき始める。ただし、それでも無限大の距離の第一歩を歩みはじめたにすぎない。そんな途方もないスケールが仏教です。 良いことばかりを積み重ねたら最終的に悟りが目の前に現れるという都合のよい理屈は仏教では通用しない。形だけを守っていても少しも近づいていない。 形を通してその意味を知ること。生き物を殺してはならないという形から、「ああ、いのちって皆つながっているんだ」ということを自分の身体、存在で感じていくこと。それが蓄積されることが近づいていく一歩になっている。そういったところが、道徳など世にある他のものとは違う点でしょう。 ―― 仏教の面白いところは、知識がないと学ぶ手がかりがないことですね。仏教は、自分よりも先を歩む先輩から教えてもらわないと理解できない。それははるか昔の経典でもあり、同時代を生きる先達でもありますが、とにかく自分よりも先に歩んだ者の存在。自分の人生を歩めばひとりでに仏教が分かるというものではない。仏教の知識がなければ、自分の人生において重要だと思ったことが、あたかも真理のように見えてしまうことがあります。
末本住職 だから、私情が入る余地のない厳しい教義、作法、仏事が重要なのです。学ぶ手がかりとして形があるのは事実ですね。
―― 友人が夫婦喧嘩をしていて、話を聞いていたが平行線なので、「私は、仏教の学びの中では、私を救う仏は、私が嫌いな**さんも救う。**さんを救うからこそ、この私を救うと聞いている」と話しました。これは、私自身が分け隔てをしているという事実を気づかせる言葉。私は自分の中に怒りがある時はその都度、繰り返し自分にこれを言い聞かせている。つまりほぼ毎日、言い聞かせていることになっていて、私とはなんと情けない者だと思うのです。
末本住職 それは、なにか事件がおきるたびに話題になります。どれだけの人が、その仏の御心に思いをはせているか。加害・被害とは別のところで、仏ならばどうか、というところに思いを置く人はあまりいないのかもしれません。 「安心したら良い。いのちはみんなつながっているんだよ」ということを知らせようとして今この瞬間に働きかけているのが仏。その仏に心をはせなさいと言う。しかし、被害の側にあった人にはそれを考える余裕はないと思う。 自分が置かれている立場で、私にとって、私はこう感じ取れるなあと思うのが良いですね。それはやはり、自分の人生ですからね。自分の人生を見るときに、仏さまのまなざしを意識するのは重要です。自分がもっとも嫌がっている人を仏は救おうとされている。その目を持つことは、自分の人生を作るために大切なことです。
―― 人生が怖いのは、自分の人生経験で物事を判断したがるようになること。40年生きた人ならば、その40年間の経験が社会を計る物差しになる。自分の人生を超える手段を持っていないとその独善に陥ります。 だから、すごく耳触りのよい、人情的に良いことを言う人ととことん話し合ってみると「その素晴らしい出来事はあなたの人生だけで通用することで、私はそれを共有できない」ということに帰結してしまうことも多いのです。 仏教を学んだ人は、人を見る基準が自分の人生経験ではなくなります。『クイズ浄土真宗』でいえば、帯に、おばあちゃんが伝えたかったことがあるというメッセージがあります。これは、そのおばあちゃんも、おばあちゃんのお母さん、お父さんなどから教わったことを受け継ぎ、その受け継いだものを次代に渡したいのだという意味を含んでいますね。受け取る側から言えば、人の人生を背負わされて重たいというのではなく、自分の人生のキャパシティを超えると言うか、自分の身体の中に閉じ込められていた思いが、この身体を飛び出して良いのだと言われている感覚。そこには怖さや面倒くささはなく、どんどん身軽になっていく楽しみがあります。
末本住職 日本一有名な野球の投手がいるが、彼は一生懸命にやれば結果が出ると言い、周囲もそれに賛同しているようです。しかしそれは、「自分の場合はそうだった」ということにすぎない。本人だけでなく周囲の大人もそれに気付いていない。 これはオリンピックでメダルを取った人も言うし、様々な賞を得た人もそう言うでしょう。でも、たとえば50人の学生がいて、皆が勉強を頑張れば全員が1番になれるのかと言うとそうではない。1番の学生は頑張ったから1番になった。50番の学生は頑張っていないから50番だったと言われる。そのような理屈で過ごしていく人生は怖い。50番の学生にも、1番の学生にも、頑張ったり怠けたりした瞬間が潜んでいる。皆、両方の世界を持っているという事実が見えなくなっています。 道徳上の善人と悪人も同じですね。親切な人を見かけて、「あの人は他人に親切にした。本当に良い人だ」という評価を与えたとする。そんな人でも腹が立って仕方がない時だってあるんですよ。 仏教を学べば、この心の揺れ動くさまが自分で分かるようになります。「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界」の六道は、一般社会では、人が死ぬと生前の働きに応じて強制的に送り込まれる世界だと思われています。 事実はそうではない。今、この瞬間に怒りに身を焼かれていたら、それはその人が地獄にいること。今、この瞬間に何も考えられないほど心が乾いて飢えていたら、それはその人が餓鬼とともにいること。今、この瞬間に嬉しくて嬉しくて天にも昇る気持ちだったら、それはその人が天界にいる…。 人の心はいつでも、一瞬たりとも休むことなく、この六道を往復しているのです。それぐらい自分の心はエネルギッシュであるが、それと同時にこれほどあてにならないモノはないのです。 ―― 仏教の核心である信心を自分の人生に降ろしてこずに、人や事象を評価するために知識を使おうとする人のなんと多いことか。宗教について情報量の多い人がひとしきり語った後に「私は無宗教で良いのです」と言われると、「その知識って何?」と思います。 私が過去に編集をしていた業界新聞での一例です。ある業界人がその業界で行われる展示会について発言した内容の記事ですが、「展示会がお題目のように形骸化している」という発言をしました。この原稿の問題に気づいたので、編集部内で訂正するべきだという話をしたところ、ベテラン編集者が「お題目とは形骸化していることを指す常套句だから、これで良い」という返事をしました。それを聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走り、「この発想は恐ろしい」と思いました。「南無」に込められた意味、お題目にどれだけのものが詰まっているかを長々と説明し、紆余曲折を経て「空のお題目」に修正することで決着しました。「空のお題目」という言葉の使い方が正しいのかは分かりませんが、こういう中身を伴わない知識の例がたくさんあるのが世の中だということなのでしょう。
末本住職 仏教の知識は本来、自分の人生のためにある。でも本末転倒してしまい、どれだけ知識を豊富にできるかが自分の人生の価値を決めるという思いにとらわれている。これも一種の成果主義。人から褒められることが自分の人生の充実だと思ってしまいます。 知識は己を知るためにある。己と他との関わりを知らされていく材料、手がかりなのです。自ら進んで自己探求をはじめる人や、外的な要因でそうせざるをえなくなった人。自分とは何だ?なぜ自分は生きているのだ?という探究をする環境に至らないと、知識を得る意味が見えてこないのかもしれません。
―― 自分が苦悩から解放されていく道を歩もうとすれば、学び、知識が増えていきます。知らなかった頃よりも知り始めたころの方が気が楽になるという点だけを見ても、しあわせですが、この道は批判好きになってしまう道にもなりえます。だから、「その道は何の道なのか?何を求めてその道の歩むのか?」と、常に問いかけてほしい。
末本住職 同じように見ていて、同じように聞いていても、それをどう受け取るか、あるいは受け取らずに過ごしてしまうこともあり、差異がある。「物事を自分がどう受け取っているか」の問題でしょうね。 たとえば、私は先日、ラオスに行きました。巨大なメコン川は濁った泥の川でひっきりなしに流木が流れていました。この川には魚類だけで1200種類もいる。周囲の森林にもものすごい数の生物がいる。現場にいると肌でその凄さを感じました。現場の観光客は「汚い泥の川だな」というのが大半だったけれど、私は幸運なことにそうではなく「川の中の生物、いのちは直接は見えないけれど、つながっているんだ、息づいているんだ」ということに思いをはせることができました。そうすると、泥の黄土色が、私には輝く黄金色になって見えた。それは、私の家族でいえば昔に亡くなったおばあちゃんでも同じ。動作は鈍くて取り柄もないおばあちゃんだったが、亡くなって何十年経って、私が人生を歩めば歩むほど、その存在の凄さが見えてきた。でもその凄さは、見えてこない人にはいくら頑張っても見えてこない。「心の底から仏さまと一緒になっている人生」ということの凄みです。 見えている形に含まれる中身のすごさに気づくか気づかないか。1ミリのいのちだと思っていたのに、実は無限大のいのちだったという事実に気づくこと。ここに気づいてくると、その人が今生きている、この瞬間はそれだけ重みを増してくる。 同じ50年の人生でも、単なる50年を過ごした人と、無限の時につながる50年を過ごした人の違い。その違いは人生の充実に大いに関係してきます。 順風満帆の人生が素晴らしいのではない。喜びだけでなく憎しみも哀しみもあって、何でもありの経験をして、その50年が無限大の時間につながることをかみしめられるかどうか。それが今、人生を生きていくうえで最も大事なことです。知識は、これを得ていくためのひとつの縁(えん、きっかけ)ですよ。知識がこのようにして人生を豊かにしてくれるならば、こんなにありがたい縁はないのです。 知識を得ても何も人生に反映しないなら、それはさみしいことです。 仏教を学ぶ理由は、自分の人生のため。学ぶことによって自分の人生が何倍にも深まるのだから、これは人間が手にできるあらゆる事象の中でもっとも贅沢なモノ。有限のはかない自分のいのちが、無限のいのちに転換されるわけですから。
|