お念仏とは、阿弥陀如来の救いを受け取った証拠

 

【念仏 ねんぶつ】――念仏だけで浄土に生まれることができる

 

念仏とは、口で「南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)」と称えることです。

これを称名念仏(しょうみょうねんぶつ)と言うのですが、この阿弥陀仏の名号(みょうごう)を称えただけで、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることができると説かれたのが法然聖人です。

つまり、難しい修行をしなくても、念仏だけで浄土に生まれることができると言われたのです。 

 

それまでの仏教の考え方では、さまざまな修行があって、それらを一つ一つ精魂込めて実践し、積み上げていくことによって、はじめて悟りの境地に至るとされ、浄土へ生まれるのもまた、同様に種々の修行が必要とされていました。その中で、もちろん口で称える念仏も行われていたのですが、それはあくまで助業(じょごう)と言われる補助的な修行に過ぎなかったのです。

 

念仏こそが浄土に生まれる要因――阿弥陀如来の願いだから

 

ところが、法然聖人は、念仏こそが浄土に生まれる要因(正定業=しょうじょうごう)であり、他の修行は行ずることが難しく、すべての人を救うといわれる阿弥陀仏の本願(ほんがん・本心)ではないと解釈されたのでした。ここに浄土宗という一つの仏教体系(宗派)が成立したわけです。

口に出して称えただけの念仏一つで、難行苦行を試みても往くことが難しい浄土に、どうして生まれることができるのか? 一見、そんな都合のよいことは信じられないと思われるかもしれません。しかし、阿弥陀仏の本願、本心をうかがうとわかってきます。

阿弥陀仏からすると、すべての生きとし生ける者の苦悩を除き、浄土に生まれさせて輝かせたいというのが願いです。

 

一人ももらさずに救う手段が念仏

 

人には、利発な者から、無気力な者、わかっていても悪い癖が直らない者もいます。

 

「一生懸命努力して、能力を高め、自分を磨きなさい。そうすれば、浄土に生まれて仏となることができますよ。そのためにしっかりとサポートします」と言われても、それを完璧にできる人はまずいません。

コーチがいくら指導してもオリンピックで金メダルが取れる人は極めて稀であるようなものです。

 

ですから、阿弥陀仏は、誰もが浄土に生まれることのできる手だてを考えて、ご自身の方で用意され、それをすべての人びとに提供することによって、一人残らず浄土に生まれさせようとされたのでした。その手だてが念仏です。

したがってその称えるところの「南無阿弥陀仏」という名(名号)には、阿弥陀仏の持っておられる無上の能力、言わば絶大なる功徳のすべてが凝縮され、内包されたものであり、それを称えるということは、阿弥陀仏の功徳のすべてが私に至り届くということなのです。つまり、阿弥陀仏の善業が念仏によって私の上に実現するわけですから、少々の善業を積み重ねた人とは比べものにならず、文句なしに浄土に生まれることができるというものです。

 

親鸞聖人は法然聖人から念仏の真実を受け継いだ

 

法然聖人は、この称名念仏によって阿弥陀仏の浄土に生まれるという教えを説かれたのですが、この教えを受け継いで、さらに深められた方が親鸞聖人です。

親鸞聖人は、称える念仏にも自分の力が混じった自力の念仏と、徹底して自力を否定して百パーセント阿弥陀仏のはたらきとして受け取る他力の念仏に分けられ、阿弥陀仏の本願は、その他力の念仏(絶対他力)であることを明らかにされました。

つまり、念仏には、阿弥陀仏の「必ず救う」という本願をそのまま疑いなく受け取る「信心」がともなって、はじめて真実の浄土に生まれ、心からの安らぎを得られるのであって、称える行為に自分のてがらを交えた自力念仏では、幻の浄土に留まって、本当の安らぎは得られないとされたのです。

つまり、浄土に生まれることのできる要因は「信心」と言われたのです。

 

自分の口から出てきた念仏は、阿弥陀如来のお呼び声

 

阿弥陀仏の本願が念仏となって私に至り届いていると、私自身が疑いなく信じ受け取ることこそ肝要であり、自分の口から出てくる念仏は、その受け入れた証であり、阿弥陀仏に救われる喜びと感謝の気持ちに包まれたものであると味わわれたのです(これを信心正因・称名報恩と言います)。

したがって、親鸞聖人の教えでは、念仏は「阿弥陀仏のお呼び声」であり、受け取る私の側からすれば「報恩感謝」の念仏ということになります。

 

※参考資料→法然聖人著『選択本願念仏集』、親鸞聖人著『教行信証』、唯円著『歎異抄』等

末本 弘然 記

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