下記の書店でも案内されています。
紀伊国屋書店の紹介ページ http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4862491448.html
セブンネットショッピングの紹介ページ http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1102720154
tutayaオンラインの紹介ページ http://www.tsutaya.co.jp/works/40837574.html
|
筆者はインドに足しげく通うにつれ、いのちの終わりが、いのちのはじまりにつながることを実感していく。
いのちの終わりがいのちのはじまりにつながっていることを象徴する一文を抜粋したい。
『仏さまに出会う旅』より抜粋 …お釈迦様が水浴びされたというネーランジャラー川を歩いていると、人の骨があちこちに放置してあるのを見つけました。乾季だったので川に水はありません。 しかし、「なぜ川に人骨があるの?」と思ったすぐあと、この川がガンジス河という大きな河に合流することに気づきました。やがて雨季になると、これらの骨は、流れはじめた水とともにガンジス河へ運ばれることでしょう。聖なる川といわれるガンジス河に遺骨を流すと、死後、幸せになれる…インドの人びとの多くはそう信じていたのでした。川で火葬した後も、骨をそのままにしているのは、ガンジス河に流すためだったのです。 たまたま目をやった人骨には、鳥の卵が三つ産みつけられていました。人のいのちの終わりと、鳥のいのちのはじまりが一つになっている… いのちのつながりを感じさせる光景が、ネーランジャラー川の川底にありました。インドの人たちは、生と死がとなり合わせにあり、死が身近なものであるということを、きっと生活の中で感じ取られているのでしょう。 ネーランジャラー川の人骨もそうでしたが、ガンジス河の本流が流れるヴァラナシーでは、そのことがよりはっきりとわかります。 ヴァラナシーのガンジス河岸の火葬場、マニカルニカ・ガートには、毎日、遠近各地から、次々と遺体が運ばれてきます。 そして、そこで火葬にされ、すぐ前のガンジス河に遺骨(遺灰)が流されるのです。遺体を積んだまきが勢いよく燃え、白いけむりが上がっていました。近づいてみると、男の人が二人、しゃがみこんで、燃えているところをじっと見つめています。さらに近寄ると、グッとにらみつけられました。 「見世物じゃないぞ!」…目はそう語っているようでした。 でも、申しわけないと思いながらも、人生の大切な勉強をさせてもらっているのだという思いから、立ち去らず、見続けることにしました。男の人たちは、燃える遺体を見守りながら、目には涙をためていたのです。 後で聞くと、遺体はその男の人たちの母親だったそうです。 ごまかすことなく、肉親の死をしっかりと見届けるのです。それはつらい営みといえるでしょう。しかし「 悲しくても、それが生きるということだ 」と、その男の人たちに教えてもらったような気がします。 |
旅が、楽しい観光旅行で終わることもあれば、旅から帰ったその後の人生にこそ、影響を与えることもある。それはインドであっても、ヨーロッパであっても、日本国内であっても、同じことだ。
一昔前は、旅に行くこと自体がステータスで、「あの国に行ったんだ」「へえ凄いね。いつか私も行ってみたいなあ」で済んだ。最近は、観光地にはもう行き尽くしてしまった人が増え、「あの国に行ったんだ」と言えば、「へえ、それで、何を見たの?何を感じたの?それがあなたにどんな影響を与えたの?」と返される。答えられない程度の経験ならば、もう一度行った方が良い。
筆者の場合は、西洋的な価値観に染まっていない庶民の生活の中を歩いた。そこでは、いのちがむき出しのままだった。
知人のインド人ビジネスマンに本書を見せたら、大喜びだった。「先入観なく、デフォルメすることなく、誘導することなく、インド人の庶民の生活がそのままの姿で写っている。だから良い」という理由で、彼らは喜んだ。
いのちに気づく瞬間は多くの場合、生と死のはざまに立った時だ。私たちは、生を美化し、死をきらって隠す社会に住んでいる。命の意味を教えられずに生きるがゆえに、生と死がひとつにつながっていることも知らない。
宗旨・宗派を問わず、信仰を大切にする家庭で育った人は、家庭でこの真実を学んだだろうが、学校では「ところで、いのちって何だろう?分かるまで、考えましょう」という気の効いた授業などまず行われない。もちろん職場にもそんな研修はまずない。
だから、あるがままにいのちを見ることが難しくなっていく。命を素直に見つけることができないと、誰かと出会った時に、自分の都合で相手を見ずに、そのままの相手と関わっていくという当たり前のことができなくなる。
死を隠すことで表面的な心の平安は十分に約束されるのだが、いつの間にか私たちの心は、作物が育たない大地のように痩せて衰えて行く。貧しい心根だからこそ、しゃにむになって幸福を求めて生きようとする。ある人はそれが大金だと言い、ある人はそれが権力だという。ある人はそれが人間愛だという。しかし、どれも、自己愛からはじまるベクトルなので、いつまでも逃げて行く幸福のしっぽをつかもうと追いかけるはめになる。
仏教はそれを煩悩と呼び、その煩悩でできている存在として自分がいることの自覚を促した。
むき出しの死に出遇ってしまうと、ためらい、戸惑い、畏れ、本能的な防御反応までも、いろんな要素が噴出する。ところが同時に、死を前にした私は、自分が間違いなくここに生きているのだということを知る。
筆者はインドを旅し、「お釈迦様は私たちに会いたくてこの世に出てこられた」ということを実感した。お釈迦さまは、財をなし、健康で、心豊かな人々に会うためだけに、この世に出てこられたのではない。心貧しく、病み、財もない人々にも等しく会いたいがために、出てこられたのだ。
本書を読み進み、筆者の後ろについてインドを歩いて行くと、私たちも、お釈迦様がこの世に出て来られた理由を実感する機会に恵まれる。そしてそれは、そのまま、自分に与えられていたものの正体を知ることにつながっていく。
釈即信(ナムのひろばウェブマスター)筆。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|