いのちの終わりと始まりがつながる生き方を貫く人々との出会い。『仏さまに出会う旅』書籍紹介

インドフォトエッセイ 仏さまに出会う旅書評

『インド・フォトエッセイ 仏さまに出会う旅』

2000年から足掛け9年に及ぶインド訪問記だ。東方出版(本体1600円・税別/2009年8月24日発行)

東方出版 大阪市天王寺区逢坂2-3-2-602 http://www.tohoshuppan.co.jp/2009ho/09-08/s09-144-2.html

 

下記の書店でも案内されています。

 

紀伊国屋書店の紹介ページ

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4862491448.html

 

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tutayaオンラインの紹介ページ

http://www.tsutaya.co.jp/works/40837574.html

 

 

筆者はインドに足しげく通うにつれ、いのちの終わりが、いのちのはじまりにつながることを実感していく。

いのちの終わりがいのちのはじまりにつながっていることを象徴する一文を抜粋したい。

 

インドフォトエッセイ 『仏さまに出会う旅』東方出版発行

『仏さまに出会う旅』より抜粋

…お釈迦様が水浴びされたというネーランジャラー川を歩いていると、人の骨があちこちに放置してあるのを見つけました。乾季だったので川に水はありません。 しかし、「なぜ川に人骨があるの?」と思ったすぐあと、この川がガンジス河という大きな河に合流することに気づきました。やがて雨季になると、これらの骨は、流れはじめた水とともにガンジス河へ運ばれることでしょう。聖なる川といわれるガンジス河に遺骨を流すと、死後、幸せになれる…インドの人びとの多くはそう信じていたのでした。川で火葬した後も、骨をそのままにしているのは、ガンジス河に流すためだったのです。

たまたま目をやった人骨には、鳥の卵が三つ産みつけられていました。人のいのちの終わりと、鳥のいのちのはじまりが一つになっている… いのちのつながりを感じさせる光景が、ネーランジャラー川の川底にありました。インドの人たちは、生と死がとなり合わせにあり、死が身近なものであるということを、きっと生活の中で感じ取られているのでしょう。

ネーランジャラー川の人骨もそうでしたが、ガンジス河の本流が流れるヴァラナシーでは、そのことがよりはっきりとわかります。 ヴァラナシーのガンジス河岸の火葬場、マニカルニカ・ガートには、毎日、遠近各地から、次々と遺体が運ばれてきます。

そして、そこで火葬にされ、すぐ前のガンジス河に遺骨(遺灰)が流されるのです。遺体を積んだまきが勢いよく燃え、白いけむりが上がっていました。近づいてみると、男の人が二人、しゃがみこんで、燃えているところをじっと見つめています。さらに近寄ると、グッとにらみつけられました。

「見世物じゃないぞ!」…目はそう語っているようでした。 でも、申しわけないと思いながらも、人生の大切な勉強をさせてもらっているのだという思いから、立ち去らず、見続けることにしました。男の人たちは、燃える遺体を見守りながら、目には涙をためていたのです。

後で聞くと、遺体はその男の人たちの母親だったそうです。

ごまかすことなく、肉親の死をしっかりと見届けるのです。それはつらい営みといえるでしょう。しかし「 悲しくても、それが生きるということだ 」と、その男の人たちに教えてもらったような気がします。

その旅は、あなたにどんな影響を与えたのですか?

旅が、楽しい観光旅行で終わることもあれば、旅から帰ったその後の人生にこそ、影響を与えることもある。それはインドであっても、ヨーロッパであっても、日本国内であっても、同じことだ。

一昔前は、旅に行くこと自体がステータスで、「あの国に行ったんだ」「へえ凄いね。いつか私も行ってみたいなあ」で済んだ。最近は、観光地にはもう行き尽くしてしまった人が増え、「あの国に行ったんだ」と言えば、「へえ、それで、何を見たの?何を感じたの?それがあなたにどんな影響を与えたの?」と返される。答えられない程度の経験ならば、もう一度行った方が良い。

筆者の場合は、西洋的な価値観に染まっていない庶民の生活の中を歩いた。そこでは、いのちがむき出しのままだった。

知人のインド人ビジネスマンに本書を見せたら、大喜びだった。「先入観なく、デフォルメすることなく、誘導することなく、インド人の庶民の生活がそのままの姿で写っている。だから良い」という理由で、彼らは喜んだ。

 

いのちに気づく瞬間は多くの場合、生と死のはざまに立った時だ。私たちは、生を美化し、死をきらって隠す社会に住んでいる。命の意味を教えられずに生きるがゆえに、生と死がひとつにつながっていることも知らない。

宗旨・宗派を問わず、信仰を大切にする家庭で育った人は、家庭でこの真実を学んだだろうが、学校では「ところで、いのちって何だろう?分かるまで、考えましょう」という気の効いた授業などまず行われない。もちろん職場にもそんな研修はまずない。

だから、あるがままにいのちを見ることが難しくなっていく。命を素直に見つけることができないと、誰かと出会った時に、自分の都合で相手を見ずに、そのままの相手と関わっていくという当たり前のことができなくなる。

死を隠すことで表面的な心の平安は十分に約束されるのだが、いつの間にか私たちの心は、作物が育たない大地のように痩せて衰えて行く。貧しい心根だからこそ、しゃにむになって幸福を求めて生きようとする。ある人はそれが大金だと言い、ある人はそれが権力だという。ある人はそれが人間愛だという。しかし、どれも、自己愛からはじまるベクトルなので、いつまでも逃げて行く幸福のしっぽをつかもうと追いかけるはめになる。

仏教はそれを煩悩と呼び、その煩悩でできている存在として自分がいることの自覚を促した。

むき出しの死に出遇ってしまうと、ためらい、戸惑い、畏れ、本能的な防御反応までも、いろんな要素が噴出する。ところが同時に、死を前にした私は、自分が間違いなくここに生きているのだということを知る。

筆者はインドを旅し、「お釈迦様は私たちに会いたくてこの世に出てこられた」ということを実感した。お釈迦さまは、財をなし、健康で、心豊かな人々に会うためだけに、この世に出てこられたのではない。心貧しく、病み、財もない人々にも等しく会いたいがために、出てこられたのだ。

 

本書を読み進み、筆者の後ろについてインドを歩いて行くと、私たちも、お釈迦様がこの世に出て来られた理由を実感する機会に恵まれる。そしてそれは、そのまま、自分に与えられていたものの正体を知ることにつながっていく。

 

釈即信(ナムのひろばウェブマスター)筆。

 

末本弘然師インド訪問の一場面

ニューデリーの大きな市場の様子
ニューデリーのメインバザールの様子

ムンバイの市街地を走る二階建てバス
ムンバイの市街地を走る二階建てバス

ジャルガオン駅。ホームにも人があふれる。
ジャルガオン駅。ホームにも人があふれる。

デカン高原
デカン高原

ムンバイ空港近くの町並み。山腹まで家が建ち並び、向こうには高層マンションが見える。
ムンバイ空港近くの町並み。山腹まで家が建ち並び、向こうには高層マンションが見える。

霊鷲山の山麓の風景
霊鷲山の山麓の風景

チェンナイでのヒトコマ。オートリキシャの運転手さんと。
チェンナイでのヒトコマ。オートリキシャの運転手さんと。

遺体を車に乗せて、火葬場に向かう家族たちに出会う
遺体を車に乗せて、火葬場に向かう家族たちに出会う

ムンバイのクロウフォード市場。猫もカラスも食べ物を探す。
ムンバイのクロウフォード市場。猫もカラスも食べ物を探す。

ムンバイのクロウフォード市場。ゴミ捨て場は多くの生き物にとって、食べ物を探す貴重な場所。
ムンバイのクロウフォード市場。ゴミ捨て場は多くの生き物にとって、食べ物を探す貴重な場所。

チェンナイの津波の後に建てられた家。
チェンナイの津波の後に建てられた家。

乾期のネーランジャ川を歩くと、川底で火葬をした跡に出会う。川底の人骨は、やがて雨が降って流される。
乾期のネーランジャ川を歩くと、川底で火葬をした跡に出会う。
川底の人骨は、やがて雨が降って流される。

コルカタ市内の路上。井戸水を汲む父と子。飲み水は貴重なものだが、私たち日本人が飲むとお腹を下すだろう。
コルカタ市内の路上。井戸水を汲む父と子。
飲み水は貴重なものだが、私たち日本人が飲むとお腹を下すだろう。

パトナにて。人間と牛が同じように、捨てられたゴミの中から使えるものがないかどうか探しています。
パトナにて。
人間と牛が同じように、捨てられたゴミの中から使えるものがないかどうか探しています。

アジャンタからブサヴァルに向う途中。車で移動中、牛の大群が道路をふさいでいました。運転手さんは警笛も鳴らさず、牛が道を譲ってくれるまで、根気よく待っていました。
アジャンタからブサヴァルに向う途中。車で移動中、牛の大群が道路をふさいでいました。
運転手さんは警笛も鳴らさず、牛が道を譲ってくれるまで、根気よく待っていました。

ヴァラナシーで。狭い道の端で休んでいる大きな牛に向って、子どもさんが何やら叫んでいます。
ヴァラナシーで。狭い道の端で休んでいる大きな牛に向って、子どもが何やら叫んでいます。

コルカタで。雨水を気持ちよさそうに浴びながら身体を洗う老婆。
コルカタで。雨水を気持ちよさそうに浴びながら身体を洗う老婆。

コルカタで。ヒンドゥー教のカーリー寺院前では、定期的に路上生活者のために食事が振舞われる。
コルカタで。ヒンドゥー教のカーリー寺院前では、定期的に路上生活者のために食事が振舞われる。

ヴァラナシーで。大きな木の根元はほこらが作られ、お参りする。
ヴァラナシーで。大きな木の根元はほこらが作られ、お参りする。

バスの運転席には神様がいる。
バスの運転席には神様がいる。

チェンナイの海沿いの堤の上で洗濯をする女性たち。
チェンナイの海沿いの堤の上で洗濯をする女性たち。

これより下記は、インドに同行取材されたプロカメラマン 幡谷康明氏が撮影した作品。

牛のふんを乾燥させる。
ネーランジャ川近くの村。牛のふんを乾燥させる。

ネーランジャ川近くの村。
ネーランジャ川近くの村。

ネーランジャ川近くの村。
ネーランジャ川近くの村。

マニカルニカーガード
マニカルニカーガード

マニカルニカーガード
マニカルニカーガード

マニカルニカーガード
マニカルニカーガード

マニカルニカーガード。反対側を見るとこの美しさ。
マニカルニカーガード。反対側を見るとこの美しさ。

マニカルニカーガード。
マニカルニカーガード。

マニカルニカーガード。
マニカルニカーガード。

クシナガルの入り口
クシナガルの入り口

ニューデリーのアショカカントリーリゾートホテルの前で
ニューデリーのアショカカントリーリゾートホテルの前で

ニューデリーのアショカカントリーリゾートホテルの前で
ニューデリーのアショカカントリーリゾートホテルの前で

アッサジ師と出会う。
アッサジ師と出会う

クシナガラ荼毘塔前の朝日
クシナガラ荼毘塔前の朝日

牛車
牛車

水飲み場
水飲み場

サトウキビを圧搾する
サトウキビを圧搾する

麦畑
麦畑

hiranyavati river
お釈迦さまが最期に沐浴されたというヒラニャヴァティー河(Hiranyavati river)

小さな村
小さな村の様子

牛が畑を耕す
牛が畑を耕していく

人はその後でサトウキビを植えて行く
人はその後でサトウキビを植えて行く

小さな子ども
小さな子ども

日本の仏塔の宿舎
日本の仏塔の宿舎

豚

ラクダの死がい
ラクダが死んでいた

ネパールの人々が巨大な菩提樹の穴をくぐりぬけている
ネパールの人々が巨大な菩提樹の穴をくぐりぬけている

小屋
小屋

土のかまど
土のかまど

ヒンドゥー教徒の山車
ヒンドゥー教徒の山車

広大な農地が点在する
広大な農地が点在する

牛は働き者だ
牛は働き者だ

ハヌマーン。サルの王様
ハヌマーン。サルの王様

ヤギが土の中のミネラルを摂取している
ヤギが土の中のミネラルを摂取している

手形をたくさんつけた牛が行く
手形をたくさんつけた牛が行く

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